#7 期待するのをやめること


♦︎追い求める

自分に合うものや本当に必要なものを見極めるのは時に、とても難しい。それでも追い求めたいと思うものを見つけたら、それを手に入れるのが幸せに繋がるとも限らないのに、可能性だけを信じて追ってしまう。
急に世界が輝いて見えたりする。あるいはすがるような気持ちがする。


仮に、追い求めたものが手に入り、幸せになれたとする。でも誰しも時と共に経験を重ね変わっていく。昨日まであった幸せはもう、なんだか曇って、変わって見えたりする。変わったのは自分かもれなくても。


変わったのは自分ではなく他人だったとして、だからといってそれを責められるはずもない。それは初めから起こりうるとわかっていたことだから。いつまでも変わらぬものがあるとすればそれは、自分の中だけに存在しうることで、実際それさえ危ういというのに、他人のことなどわかりはしないのだ。……そう思う。


人に期待する。社会に期待する。それはよく起こる。信じたいと思うから。救われたくて、報われたい。
でも移り変わるものを信じて期待したところで、私は救われて報われるのだろうか。信じられるものが存在するとすればそれもやはり、自分の中にしかないのではないか。ならば期待を寄せるべきは他人や社会ではなく、自分自身なのではないか。先に信じるべきは自分……ともすれば私は、間違ったものを追い求めていたのではないか……。


そんなことを言っても、自分を信じるってどういうことか、全然わからなかった。いつも他人軸で生きてきた。周りにいる仲間を信じてこそ私の力は発揮される。そう思ってきた。


私の未来を決めるのは他人だ……とまでは思わないが、人生というのは他人や社会に大きく左右されるものだと思っていた。世の常レベルでそういうものだと思っていた。でも、そうなのだとしたら、それはやはり他人に期待してしまう部分が含まれていることになる。私の幸せは他人に握られているのだろうか。


何事もなければただ過ぎて行く毎日だったのに、ある時私は、人に期待することをやめる必要が生じた。なぜなら私は人のことを大切にしていたのにもかかわらず、裏切りや絶望が起こり、それが私を病気にしたのだ。



♦︎失望

私は期待するのをやめたことがある。失望したのだ、母に。母は死ぬまで私を自身の分身か何かだと思って生きるのだろう、娘は娘という独立した一人の人間であるという感覚を持てなかったのではないかと考えている。


ー母ー
母は『話せば娘はきっと分かってくれる』そう思っていたと思う。母がわかって欲しいことが何かといえば、自身の正当性である。母として自分は間違っていなかった。全ては仕方のないことだった。ぶったり罵ったりしたのも、仕方がなかったのだと話せば、きっと娘はわかってくれる、今までずっとそうだったから。そんな感覚を持っていたと思う。

でも、そうではなくなった。あるとき娘は変わってしまった。母である私を責めるようなことを言うようになってしまった。そんな子に育てた覚えはない。私は子育てを間違えたのだろうか。
ーー母は悲しみ苦しんだのだろう。



ー娘ー
一方私は、母と同じように、母は私をわかってくれるはずだと思っていた。辛かったことを話せばきっと、ごめんねと、謝ってくれると思った。期待したのだ。母ならわかってくれるはずだと、間違ったものを追い求め、叶わない期待をした。


これがまずかった。叶わないのに期待する。盲目なのだ。好きだから。叶うに決まっていると思っていたものが叶わないことを悟った瞬間、それは起こった。心の中でガシャガシャと高いビルが崩れ落ちていくような、凄まじい衝撃だった。そして静まり返った瓦礫の山を前にして私は、失望を覚えた。もぬけの殻になった。そして、母に期待するのをやめた。あとは、病気になった。



ーー鬱になったり、死のうとしたり、色々あった。
しばらくして回復し出すと私はたくさん本を読んだ。「期待するからガッカリするのですよ」「期待するのをやめるのです」そんな言葉を至るところで見た。「諦める」とか「手放す」とかもそう。……理解が難しかった。

『まだつらいよ?期待なんてもうとっくにやめているというのに』
そう思った。

そもそも期待をやめるも何も、あれは好きで辞めたんじゃない。辞めさせられたんだ。失望させられたんだ。私の意思は、伝わらない。母には伝わらない。


ーーでも生きた。仕方なくだけれど。
母と離れて生きていたら色々と悪くはないよなと思うことが起きた。自分の好きな物を見つけられるようになり、自分は何者かがわかり始め、自分の生き方は自分で決めることを覚えた。もちろん人の助けがあってのことだけれど。


それで、今はこう思うんだ。


♦︎期待するのをやめることの意味

期待するのをやめなさいっていう教えの意味は、失望させられた結果期待するのをやめたのとはイコールじゃなかった。諦めるとか手放すっていうのもそれと全く同じだった。未来の私よ、ここからは私に起こった新しい心の変化を書くから、忘れないでね




失望させられた結果として期待するのを辞めたならきっと、いつまで経っても辛いままなんじゃないかな。未練が残るというか。私がそうだった。でもこちらから願い下げして期待するのを自発的に辞めたならきっと、清々しい気持ちが待っている。せいせいしたわ、ってそんな気持ち。私の気持ちに区切りをつけるのは私。他人の言動じゃない。


私は母に失望した。でも、もう未練を残さない。私は私の意思で母と自分を切り離した。あれは癒着していた。丁寧に剥がして、傷の手当てをするのを繰り返してきた。たまにズキズキと痛むけど、母と離れたのは私の意思なのだ。失望したから離れたんじゃない。私が離れようと決めたから離れたのだ。そうだったよね?忘れないで。



能動的に諦めた。自らの意思で諦めた。


『諦める』っていうのも同じで、失望するとか断念するとか、そんな事ではないと思うようになった。“私にとってこれは価値がないな”“これは私と合ってないな”“私にはまだ早かったかもな”って『自分で判断』するのが諦めるだと思うようになった。期待するのを辞める、これと同義 。手放すと言えばより近い気がする。


価値があるはず、私に合うはず、私はこれが欲しいはず、と追い求めるのは特に悪いことではない。けれどその予想が外れているのに叶うまで追い求め続けてしまうと辛くなっちゃう、だって叶わないから。 そしてこんなはずじゃなかったって気持ちが裏切られたに繋がって、失望に変わっていっちゃう。たとえ騙されていて、こちらが一切悪くなかったとしてもそれは同じことだ、それが間違ったものだいう本質部分をを見逃していると言う点で。





繰り返すが、期待するのをやめる(諦める)という言葉の意味は、失望させられた結果期待するのを辞めたのとはイコールではない。
裏切られて期待を辞めさせられたんだとしても、自らの意思でこちらから諦めるのだという考え方に塗り替えて、上書きしてみてと。願い下げだ!と能動的になってみてと。この教えはそういうようなことを伝えたいのではないかと思う。



どんなに相手が悪かったとしても、そうだと思う。自分がどうするかは自分で決めていこうよって、そう言ってるんだと思う。『能動的に諦め』ようよって言ってるんだと思う。自分が納得できないものを受け入れる方法などあるだろうか、心をなくす以外に。


この教えはこうも言い換えられると思う。人のせいに感じるのは他人ありき、受容的に自分の行動を決めているからだよって。そりゃ他人軸ではことの運びが他人次第だもの、自分で決めて行動してるんじゃないんだもの、納得できないことがあって当然。やりたくもないことをやる羽目になって苦しくなって当然。


でもそうやってしか生きられなかった。誰も悪くなんかない。不器用に生きて、無理して壊れるまで頑張ったらもう、解放してあげたいよ、自分を。


人間、納得してしまうと素直に受け入れられるものだよ。それを逆手に使うんだ。


ここはまさに、自分軸の使い所だと思う。
生きていれば、
やりたいことをやるのは普通。
やりたくないことをやるのも普通。
どちらも自分で決めたこと。
そう思えるように生きて。
後からそう思おうと思っても無理だよ。
先に私がそう決めるの。
決めてから行動するの。
他人に私の考えの軸を譲らないで。
いつも握って離さないでいて。
自分の意思や在り方を決めるのは自分なんだから。
そこに広がっているのは俗世じゃない、私の世界なんだから。


ゆー

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