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フグを食べる

日本人のゲテモノ好きは世界に知られている。
デリカシーと言われ、超一流のレストランで美しく飾られたフグを品よくおいしそうに食べる日本人。

外国人は言う。
「悪魔の魚と呼ばれるイカを食べたい?命を懸けてまでフグを食す価値、必要があるのか?」と。ノルウェー人たる夫もそんなことを言う一人だった。考えてみると、私はこれを食べるとひょっとして命が危ういかも、などと思いながら、食べ物に箸を運んだことは一度もなかった。そんなことを思いつくこともなかった。これは幸運なことなのだろうか。

四十数年前、夫が日本で一年半の留学生活を送っていた時のことだ。母からもらい受けたフグが我が家の食卓にのっていた。

外国人として、夫は、それほどにフグのことを恐ろしいものとして認識していた。だが、私は真剣に夫の感慨を受け止めてはいなかった。私はただ夫の所作、表情がおかしくて笑いが止まらなかった。

夫は、私がフグを調理する前から、今日の献立はフグ、と聞いた時から、身構えていた。そして口を開いた、神妙な顔で。いや、神妙どころか、心の中は引きつっていたかもしれない。
「これが最後の晩餐になるかもしれない」
その言葉の後、いつもはおしゃべりな夫がとてつもなく無口になってしまった。危ないものを、どうしても、食べなければならない状況に追いやられた、とまで思ったのであろうか。

私は相変わらず笑っていた。

次の日の朝、夫がぼそっと言った。
「ちゃんと息をしているぞ」
まんじりともせず夜を明かしていたのであろうか。

当時、私たちは岡山に住んでいた。その地で、フグに関して、もう一つ忘れられないことが起こった。

お店で魚を購入した。何にも知ることなく、それを調理し、口にし、死に至ったという場合、誰かが過失致死などという罪に問われるのであろうか。問われるとしたら、私だろうか、それとも、それを売った店の人だろうか。だいたい、口に入れるどんな食べ物を購入するにしても、真っ向から何かを疑って買い求める人などいるはずはないだろう。

スーパーの魚コーナーで一山いくらのじゃこエビを買った。無論、調理する前には水洗いをし、ごみなどを選別する。ボールに入れたエビの中に、一尾だけであったが、エビではないもの、じゃこえびに比べ、はるかに大きな魚、美しい形の魚が混じっていた。

長さ、七、八センチのフグだった。毒があることは、もちろん分かっていた。私はそれをそのままゴミとして捨ててしまった。

私が夫と同様に外国人だったらどうであろうか。その魚に関しての知識がまるっきりなかったら、エビもその魚もそのまま調理し食べてしまったら、そうしたら、その晩、まるでロシアンルーレットのごとく、3人家族の誰かが帰らぬ人になっていたかも知れなかったということか。

関西ではその魚のことを「あたる」ということから「てっぽう」とも呼ぶとか。まさに、その名のとおり、家族の誰かがそれにあたっていたかもしれないということだった。

私が日本人でよかった。だが、その時点でフグに対しての深い知識など私にはなかった。ただ、それがフグの中でも一番の高級種と呼ばれるトラフグだということはすぐに見て取れた。

今、考えると、魚屋さんもそんな恐ろしいことは、ミスと言えども許されるのだろうか。フグの稚魚がたった一尾で広い海を泳いでいたはずもなかろう。エビが大きな網で引き揚げられたとき、その稚魚の群れも一緒に上がったのではないだろうか、とまで考える。

また、他のことも頭の中をよぎった。なぜ、それをつまんで魚屋さんに文句を言いに行かなかったのか、と。

笑い話で済ませられるようなことではなかった。実際、私が大事になる一歩手前でそれを防いだということではないか。

人の思考というものはとめどがない。魚屋さんが愉快犯だったらどうであろうか、とまで思ってしまった。魚屋さんがエビをパックにするとき、本当にフグは目に入らなかったのだろうか。買った時には、それは確かにエビの下に隠れていたが。

また、これは推理、犯罪小説の材料として使えるのではないかなどと、思いは果てしなかった。

のちに知人に聞いてみた。
「エビを買ったら、小さいフグが入っていたんだよね。やっぱり食べたら危なかった?」
「小さい方がもっと毒性があるよ」
そんな返事が返ってきた。

フグと言えば下関。下関と言えばフグと言われる。そんなフグの町に引っ越してきて三十年ほどになる。ここではフグは実に身近だ。ほんの小さなスーパーでも購入できる。

下関ではフグは濁らずフクと呼ばれる。フグは不具に通じ、フクは福に通じるからだそうな。

今や、夫はフグ通の様な顔をして「フクを食べれば幸せになれるから」と我が家を訪れる海外からのお客様すべてを、にこにこしながら、フク料理レストランに連れて行く。

夫は彼らが四十数年前の自分自身と同じように、恐る恐るフクに箸を運び、フクについて喧々諤々としゃべりだすのを楽しんでいるようだ。

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