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人生は、地獄で高級寿司食べてるようなもの

人生のどこかの時点で、心が完全に晴れることがなくなってしまった。当たり前の結果だと思う。こんな世界でーこんな世界がどんな世界なのか説明しなくても多くの人がわかると思うがー何かに心を完全に許せる時間なんて、一秒たりともない。だから私は、自分の心を晴れさせることも、心にぽっかり空いた穴を何かで埋めることも、とうの昔に諦めている。きっとずっと、色々な悲しみをすべて抱えたまま生きていくしかない。

だけど、心が晴れなくても、楽しい時間というものはある。例えばギターを弾いて歌を歌っているときや、文章を書いているとき、ドラムで好きなフレーズを叩いているとき、本を読んでいるときや映画を見ているとき、旅をしているときなどだ。それ以外にもたくさんあるが、要は過去や未来のことを一切忘れて、今この瞬間に集中し「無心」になれる時間のことだ。普段は「生まれてきてよかった」とか、「こんな世界に私を産み落としてくれた、お父さんお母さんありがとう」なんていう気持ちには到底なれないし、もし生まれて来なくてよかったなら生まれてきたくなかったけど、それでも生きているからこそ経験できるあの瞬間の楽しさ、嬉しさ、それに嘘はない。それどころか、至高の時間でさえある。

私はお寿司とか海鮮が大の好物なのだが、人生というものは、地獄の底で苦しみもがきながら、ときどき高級寿司食べてるようなものだよなぁと、つくづく思う。どういう意味かというと、そのままの意味なのだが、ほとんどの時間は苦しいししんどいことばかりなのだけど、その中でも幸せな時間があり、それも普通の幸せではなく一際幸せに感じる、という話だ。

例えば私がnoteに書く文章はどちらかというと、人生の苦しみや不安、焦りみたいなものを書くことが多いと思っているのだけど、仮に「生まれてこなければよかった」という主題で文章を書いている最中、私は実際に「生まれてこなければよかった」とか本気で考えているわけじゃない。いや、考えてなかったら書けないだろうが、と思うかもしれないが、なんというか、これ言葉で言うのがすごく難しいんだけど、書いてるときは本当は書いてることを楽しんでいるだけなのであって、心の底から「生まれてこなければよかった」とは思っていないということなのだ。だって、そのとき本当に「生まれてこなければよかった」と心の底から思っているとしたら、文章を書く気力さえ湧いてこないはず。

でも、むしろ文章を書いていないとき、私は「生まれてこなければよかった」と本当の意味で思うことがある。さっきの「地獄で高級寿司寿司食べる」という例に例えるとしたら、普段は「こんな地獄にいたくない」「ここから早く抜け出したい」と思って生きているとしても、ときどき閻魔様が「ほれ、寿司でも食え」と高級寿司をごちそうしてくれて、それを食べている間だけは「ここにいてよかった!だって、こんな美味しいお寿司が食べられるんだもん!」と思ってしまう、ということだ。そういう瞬間がたまにあって、その瞬間をまた味わいたいと思わせるから、人生というものはたちが悪い。たかが高級寿司食べたさに、ずるずると生き伸ばしているようなものだ。(高級寿司が食べられなくなるようなものなら、私は迷わず自死を選ぶだろう)

「仕事が辛い」「腰が痛い」「老後の資産はどうしよう」「家族がいつか死ぬことを考えたら辛すぎる」「病気になったら嫌だな」「日本も戦争に巻き込まれたらどうしよう」「死ぬときはできるだけ痛くなく死にたいから、安楽死が良いな」…きっと死ぬまで心配が絶えることなんてないんだろう。現に苦しんでいる人々は世界中に数えきれないほどいるし、その現実の重さに夜も眠れなくなるときもある。もしも人類が滅亡するなら、それ以上に平和的なことはないとさえ思っている。だけど悲しいかな、私は明日も「高級寿司食べる」ために、今の自分を生き伸ばすのだ。

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