見出し画像

世界はさまざまなストーリーでできている。ポール・オースターさんありがとう。

訃報はいつも突然やってくる。米国の作家、ポール・オースター氏が亡くなった。77歳。肺ガンを患っていたらしい。まだ新作が読めると信じていたから、この訃報はとてもショックだ。

ちょっと前にブッカー賞のノミネートだかにも名前があがっていたと思ったけど、それももう7年前だったようだ。時の流れの速さを実感する。そうか、7年ともなれば病気にもなるか。オースター氏に年齢の近いわたしの父もいろいろと病気を患っていることにもふと思いをめぐらせた。

わたしがポール・オースターを知ったのはハーヴェイ・カイテル主演の映画「スモーク」だった。

今もだけどトム・ウェイツの世界観にどっぷり浸かっていた当時、ニューヨークを舞台にした「スモーク」で描かれた人間模様にウェイツ世界と共通する視点を感じた。そう思っていたところ、映画の挿入歌として流れたトムのInnocent When You Dream(邦題「夢見る頃はいつも」)。居ても立っても居られなくなったわたしは、映画を観た翌日には図書館でオースターの小説を探していた。

オースター作品には、登場人物それぞれの抱える事情や人と人との関わりからの内省が、物語をぐっと動かす瞬間がある。作品にはあらゆる人びとへの冷静かつ優しい眼差しがある。みんな何かしら特別で、世界はそのそれぞれに特別なストーリーに満ちている。

『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』という本がある(2005年、新潮社)。わたしが持っているのは1冊の単行本だが、今は2冊に分かれた新装版になっているようだ(下のリンク参照)。

これはラジオ番組が発端になって出来たもの。全米のリスナーから寄せられた体験談をポール・オースターが毎月いくつかピックアップして朗読するというのが、そのラジオ番組の内容だ。

ラジオに寄せられた体験談は何千話にもおよぶという。そのなかから厳選した180話を「家族」や「夢」「死」などのテーマにわけて編集し、オースターが書き下ろしたのがこの書籍。そこにはじつにリアルな、さまざまな人びとの生活と記憶が綴られている。

トム・ウェイツがアイディアブックとして新聞記事のスクラップを集めているのだとどこかのインタビューで話していたのを思い出す。そうしたリアルなストーリーのストックから、鋭く優しい眼差しの歌や詩が生まれるのだろう。これはポール・オースターとトム・ウェイツの共通点だろうか。オースターの小説にも、このラジオ番組はもとより彼の見聞きした話のストックが活かされているに違いない。

わたしが最後に読んだオースター作品は、昨年の『MONKEY vol.30』の特集「渾身の訳業」で冒頭を飾っていた「幻肢」(柴田元幸訳)だった。これは昨年出版されたばかりでまだ邦訳されていない『Baumgartner』の第2章部分。幻肢症候群は、身体の一部を失った人がその失った部分があるかのような感覚をもつ症状を指す。

彼の小説や映画を例に出すまでもなく、わたしたちが目にし耳にする世界は、ひとりひとりが経験し記憶しているさまざまなストーリーから出来ている。時折そんなストーリーが見え隠れする。作家が意図せずとも、本や絵や音楽に誰かのストーリーが見え隠れする。

ポール・オースターというストーリーテラーを失った今、ふとした瞬間、彼が書いてくれそうだなと思うことがありそうな気がする。もちろん新たなオースター作品が書かれることはないのだけど、これって幻肢と似ている感覚なのかもしれない。

今回の見出し画像は、ポール・オースターの自伝的作品『Hand to Mouth』のペーパーバック。表紙の写真の人物は若き日のオースター氏だ。映画スモークの洗礼を受けたあとに読んだもののひとつ。邦訳はされていないんじゃないかと思う。

映画同様、オースターのミドルネームを用いた作家ポール・ベンジャミンが登場する。実際、これはデビュー前の彼のペンネームで、かつての小説『スクイーズ・プレイ』にもリンクしている。複数の小説と映画、彼の人生が絶妙に絡み合っている。なんだかオースター氏の訃報がフィクションなのではないかなんて気分になってしまう。けどやっぱり、彼はこの世を去ってしまったのだ。世界を構成するひとりの作家のストーリーは区切りを迎えたのだ。

彼の死後、残された読者に向けて書いたなにかが発表されたりしないだろうか。彼なら用意周到にポール・ベンジャミンの死を書いていそうなものだけど。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?