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「神学校に行かなくてよかったな」と思った話

「神学校で学びたい」という思い


数年前から、「神学校で学びたい」と思っていた。
通信制の学校があり、
仕事しながらでも学べる。
自分のペースで学べる。

そんな謳い文句に惹かれていたものの、
学費が高くて断念していた。

「機会があれば、導かれるだろう」

そう思い、一旦おいていた。

アシュレークラスとの出会い

とは言ったものの、まだふつふつと湧き上がる思い。

やっぱり聖書は深く学びたい。
でも、学び方がわからない。

そう思っていた矢先、友人を通して知った
「アシュレークラス」。

1月の終わりに銘形牧師と面接し、
そのままその夜の幕屋の学びから参加。

そこからずっとアシュレークラスで学び、今は4ヶ月目くらい。

幕屋の学びや詩篇の学び、また「14のアラカルト」(イェシュアの受胎告知〜再臨までを学ぶ)
そして「霊とまことの礼拝」。

これらすべてを通して、
「聖書に証されたイェシュア」
「聖書66巻全てに書かれた、一貫した御国の福音」
をひたすら学んでいる。

トピックは違っても、全部がこの「御国の福音」を学ぶことに繋がっている。

そして、何よりもその「御国の福音」を私達が語れるようになること
「御国の福音」の働きをする祭司の集まりであること

それがアシュレークラスの目的である。

ようやく、御国の福音がわかってきた

恥ずかしながら、クリスチャンになって12年経っていながら、
このアシュレークラスで初めて御国の福音を知った。

伝道で「ブリッジ」なんて使って話そうとしても、
自分がわかってないから語れない

そんな状態だった。

イェシュアの十字架は私達を救うため

そんなぼんやりとした理解だけだった。

しかし、今になってようやく、少しずつだけど理解し始めてきた。
(当然、まだまだわからないことはあるから継続して学び中。
その度に、光が当てられてどんどんみことばが開かれてる。)

そもそも、「神学校」ってなんだ?

ここで、ふと思う。
「これ、神学校に行く必要ないのでは?」

元々、私が神学校に行こうとしてたのも、
聖書を深く学ぶことが一番の目的。
牧師になることを志したとか、そんなのではなかった。

だから、よくよく考えたら「組織神学」だとか
「教会論」とか、そんなもんはぶっちゃけどうでもいい。

何なら、教会の「伝統」とかそんなのクソくらえ。
(突然の爆弾発言)

クリスチャンが集まり励まし会う場は必要ではあるが、
その「神学」は本当にクリスチャンを建て上げるものなのか?

聖書はイスラエルの民と結ばれた計画
また、そこに接ぎ木された異邦人への計画

両方書かれている。

それにもかかわらず、
イスラエルを「教会」と読み替える置換神学に
どっぷりつかってたり、
自分たちの祝福しか求めない。

自分たちの「宗教」にどっぷり。
「神はあなたを愛している!」
そんな、具体性のない薄っぺら〜いメッセージだけ。
 
(ちなみに最初の教会は、教会ということを隠してイベントに誘ったりしてた。論外。
当然、そこで救われたとしても8割方、
教会からも、信仰からも離れていった。)

本来の「神の計画は何か?」さえ、
教会では話されない。

そんなもの、教会ではない。

なんなら、異教の祭りの日を無理やりキリスト教界の祭りと制定した「クリスマス」も、
今では正直あまり祝う気になれないし。

少しずつ学んでいる段階だけど、
あまりにも教会から「御国の福音」
創世記のはじめから終わりまで一貫して書かれている御国の福音がないがしろにされているなぁと感じる。

それを考えたら、神学校に行って「神学」を学ぶのではなく
今のように「聖書」を学ぶ方があってるな、と感じる。

ヘブル語を学んで、ミドゥラーシュ(解釈)する練習もこれから始まるし。

もちろん、これを教えてくださっている銘形牧師だって人間だから
私自身常に吟味する必要はあるけれど。
(「牧師や、教えてる人の教えは間違いない」なんてことはありえない。完全な方は三一の神だけ。)

このまま、しっかりアシュレークラスで
学んでいきたいなと思う今日このごろ。

オマケ:そのような考えに至った、もう一つのきっかけ

何週間か前、とある大きな祈祷会に出た。
国のために祈る、という趣旨のもの。

その中で、まさに私が学びたいと考えていた
通信制神学校の前校長もメッセージをすることになっていた。

(ここまで書いたらどの会かわかってしまうかも😅?)

それで結構楽しみにしていたが、
正直全く意義を感じなかった。

ゲストスピーカーとして某クリスチャン政治家さんが話し、
その後にその方も話されていたが
どちらの話も「何が言いたいのか?」が
全く見えない話だった。

ゲストの方の話は
「4代前の家族からクリスチャンで〜
父親はどこどこの人で○○で〜」みたいな話とか、
何をどうして〜とかそんな話ばかりで
聖書の話が全くでてこなかった。

メインスピーカーの方の話も
「聖書の神はどんでん返しの神だ」という点と
教会の歴史をタラタラ話してた印象。
(聞くに堪えられず途中退出したからその後の話は分からないが)

ローマ帝国が支配していた時代は〜とか
時代背景は話されてるけど。。。
肝心のみことばを話していない。

おいおい、聖書そのものの話はしないのかよ!!
御国の福音どこだよ!?
そもそも、何が言いたいのか全然わからん!

そりゃ、神学校での講義ではないから深い話は避けたのかもしれないが
率直に「神不在」の会だと感じた。
なんか、ただの政治家の集まりにみえた。

祈りの時間も、最後に同席の人と少し祈り合うだけ。

あまりにもみことばからかけ離れていて、
ものすっっごくガッカリした次第。
(ホテルのご飯は美味しくいただいた。笑)

よく参加している、こじんまりとした賛美と祈りの会のほうが本気で祈り賛美してるぞ??

こんな感じなら、最初から祈り課題をメールで流して毎週祈るとか、そういうコミュニティやったほうがよっぽど有意義やと思うんやけど。
(少なくとも、そんなでっかいホテル借りてまで
やる必要性は全く感じられなかった。)

そんなこともあり、
「あれ?神学校て案外そんなもんなのかな?」って思ってしまった。
(もちろん、きちんと聖書そのものを教えているところもあるだろうが)

その神学校、結構「パフォーマンス学」とか、
すっごいストイケイアな授業もあるっぽいし。
(その学び、いる?)
革新的な学校って出してるけど、
それで御言葉の本質学ぶ授業が削られるのは
どうかと思うけど。。。😓

と、いうことでそこに行く必要を
全く感じなくなった。
(まぁ、導かれたら行くだろうけど
今は多分ありえない)

ほんと。
教会ってなんだろう?
神学校ってなんだろう?

って改めて考えさせられた。