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旅とはそういうものかもしれない。日常の窓を開けて、新鮮な空気で入れ替える。
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旅|カタール|6

 人気のないスタジアムと青空。その二つは僕の心を満たしてくれる。工場から出荷されたばかりの車みたいに艶を浮かべる、エデュケーション・シティ・スタジアム。雲一つない空が光を注ぎ、芝生がその色を反射させたかのように客席を照らす。平和を象徴する緑。混沌とする世界の中でも、この場所は安息の地として鼓動を打つ。眩くも落ち着きのある空間は冷えたハイネケンを僕に連想させた。炭酸みたいに空気が弾ける。  音楽も華を添える。ポーター・ロビンソンも。ザ・チェインスモーカーズも。ハリー・スタイル

旅|カタール|5

 どんな場所も、自分の家になる。そこに降り立つと、身体の芯から安心感が広がる。今日も無事に帰ってくることができた。大袈裟かもしれない。しかし、異国の見知らぬ街並みと人々は神経に緊張感を与える。家はそんな僕を癒してくれる。  果てしなく続くフリーゾーン。文字通り、そこには無限にも広がる土地があり、自由がある。ワールドカップを目的に集った世界中の人々がそこにいる。風を受けてたなびく数々の国旗はその象徴だ。地球を掌の上に乗せて、両手で絞ったらフリーゾーンができる気がする。  着

旅|カタール|4

 視界の先にコンテナの白い扉があった。浴室から漏れた灯りがそこに反射していた。薄皮のような疲労が頭にこびりつく。でも、ワールドカップが僕を待ち受ける。四年が経過しても、その興奮は同じ熱を放ち、それと同時に異なる趣を湛える。熱の芯は冷めず、炎のゆらめきが穏やかになったようだ。日本対コスタリカ。僕の日常に活力と希望をもたらし続けた一戦。半年以上をかけて定めた目的の地である、アフメド・ビン=アリー・スタジアムへと向かう。  コンテナから足を踏み出すと、世界は白く染まっていた。しみ

旅|カタール|3

 アブダビからドーハの航空券は別で予約していたため、搭乗券をアブダビで受け取る必要があった。ボーディングブリッジを抜け、アブダビ国際空港の風景が眼に飛び込んでくる。民族衣装である白のカンドゥーラと黒のアバヤをそれぞれ身につけた男女。じんわりと熱がこもった空気は香りも異なり、香辛料の気配も微かに漂う。体内を流れる血管のように世界はつながっている。その中で浮遊する血球のごとく、旅人たちは世界中を駆け巡る。日常が切り替わる、この瞬間が僕は好きだ。  歩んだ先にはトランジット・デス

旅|カタール|2

 その日、東京は朝から雨が降り続いていた。出発の日。四年前もそうだった。雨に濡れることを想像しながら身支度を整えた。何気なく、窓外に視線を送る。鈍色の空から落ちるものは何もない。離れた場所から背後の窓を見やった。レースカーテンが黄色く染まっていた。視界は開き、道も開いた。モーゼを想像してしまう自分におかしみを覚えた。  成田へ向けて地下を駆け抜けていく。新橋、日本橋、東日本橋。記憶にはそれらの地名が刻まれていた。青砥だっただろうか。息継ぎを楽しむ魚のように、紅葉に染まった風

旅|カタール|1

 サッカーが放つ引力によって、僕はカタールへと導かれた。四年前にかかった魔法が解けていなかったとも言えるし、そもそも、その魔法は解けるようなものではなかったのかもしれない。ドイツ。スペイン。組み合わせ抽選会で決まりゆく日本代表の未来に、自分のそれも重ね合わせたかった。傍観していたワールドカップが日常の目標へと変貌を遂げる。  彼方へと広がる砂漠。屹立する近代的なビル群。異国情緒に満ちたカタールの風景を頭に描いた。連日世界中のサッカーを愛する者たちと競ってチケットを手に入れた

旅|知らないことがあることを知る

 風を受けて、目黒川の水面が絹のようにたゆたう。唯一無二の美。人間には創造できない、自然による麗しき景観。視線を上へと、四方へと向ける。心を開いて眼を注げば、そこにある造形の魅力に気づく。屹立するビルでさえ、独立した作品のように映る。  MUJI HOTELに泊まった。木の温もりが周囲を覆い、そこからは雑音が消え失せる。無駄な線さえも存在しない。ほのかに灯る蝋燭のように、銀座の街並みが発する光を窓越しに見つめた。穏やかな川の流れのように、時間の移ろいに身を浸す。  八月に

旅|至福の太陽

 至福の太陽。その光の中には一片の影も見つけることはできない。湿り気のない風が肌に馴染む。僕の身体はカリフォルニアの息吹と同化したのかもしれない。  朝が苦手でも、陽気な性格と笑顔が取り柄の人がいるとしよう。カリフォルニアを擬人化したら、そんな人物が僕の頭には浮かぶ。曇った空が徐々に水色へと染まる。太陽を浴びる椰子の木がこの街にはよく似合う。広大な大地と駆け抜ける自動車のエンジン音。至福の太陽が永遠に燃え続けることを願ってやまない。

旅|景色と心情

 東京駅から、わかしお五号に乗った。臨海部を抜け、車窓に緑が混じり始める。畑が焼ける香りは過去の記憶を呼び起こす。千葉の広い土地に身を置き、身体の凝りのようなものが和らいだ気がする。世界を覆い尽くすように広がる橙の夕焼け。それを遮るものはない。地平線をずっと見ていたかった。澄んだ満月は美しい。しかし、満月を白いと思ったことはなかったかもしれない。

旅|陽の光|3

 雲に覆われた空。そこから吐息のように雨粒が落ちてくる。橙と緑の線が差す東海道本線の車両に乗り込んだ。目指すは静岡の地。異国情緒にあふれた車内の空気を吸いながら、揺れに身を任せる。島田、藤枝、焼津。見慣れない駅を通過するたびに、僕は車窓に眼を向ける。何も期待していないが、視線は新たな景色を無意識に求めているのかもしれない。  ざわざわとした人の気配。起伏に富んだ壁とビルの連なり。静岡駅は想像の通り、都会だった。地下街を抜け、道路を練り歩き、雨を避けるようにしてカフェに入った

旅|陽の光|2

 掛川駅を中心に街を歩いた。目当ての店に足を運び、近くのスーパーでミネラルウォーターを買った。掛川駅から宿がある掛川インターチェンジ付近へと続く緩やかな坂の感触が脚に残る。何気ない風景だ。しかし、水気を多く含んだ空気で身体を満たし、うっすらと差す夕焼けが心に残る。  「さわやか」の「げんこつハンバーグ」。エコパでのサッカー。食とサッカーは僕を幸せにしてくれる。遠藤保仁の技術は健在だ。躍動感は薄いかもしれない。しかし、ボールを淡々と適切な場所へと運ぶ精緻な技を拝むだけでも、こ

旅|陽の光|1

 雨が降り注ぐ土曜日の朝。僕は最低限の荷物をバックパックに詰め、静岡へと向かった。電車を乗り継いだ。乗り換えた横浜駅でビールを買った。「ジャン・フランソワ」のパンを買った。そのパンは東海道線のグリーン車から眺める風景をより艶やかにしてくれる。そして、喉に流し込むビールは心身の凝りのようなものを緩めてくれた。車窓に増える緑を横目にしながら、小田原に辿り着いた。  朝から大地を覆った雨は僕の行く手を塞ぐ。小田原から先の在来線は大雨によって運転を見合わせていた。熱海、興津と思い描

旅|餃子と栃木SC

 横浜駅の構内を風のように抜ける。ホームに停車した東海道本線に僕は駆け込んだ。戸棚の上にうっすらと溜まった埃のような疲労。それを一掃したかった。視界に映る景色を変え、体内に新鮮な風を吹き込みたかった。宇都宮が僕を呼んでいた。  その地で過ごした二十時間。僕の身体は多様な餃子といくばくかのビールで満たされた。人が個性を持つように、口にしたすべての餃子はそこにしかない味を秘めていた。香ばしく焼き上がった皮。マヨネーズと一味唐辛子による、味覚と視覚のコントラスト。翡翠色をした水餃

旅|太陽の街、青の世界|5

 松本バスターミナルからシャトルバスに乗り、アルウィンへと向かった。車窓に切り取られた風景はビルの群れから大地に広がる田へと姿を変える。遠くに連なる山々は堅牢な城壁を僕に連想させる。  アルウィンは青い世界に存在している。澄み渡った空気を吸い込んだ。それは真水を口にするかのように、僕の乾きを癒してくれた。透明な海があるように、透明な空気がこの地を支配している。その空気は空の色を反射する。空は青かった。今までも青空を見てきたが、そんな思いが体内を駆け巡る。  アルウィンとサ