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誰もがふらっと迷い込み、気兼ねなく立ち去れる場――遊星D『低き楽園』評(柿内正午)

本記事では、遊星Dという零細演劇ユニットのことをよく知ってもらうために、2023年7月の公演『低き楽園』について、シェアアトリエ「円盤に乗る場」のメンバーで文筆家の柿内正午さまが書いてくださった劇評を掲載します。

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 雑居ビルの階段を登ると突き当たりの鉄扉が開け放たれていて、そこから外階段で屋上に上がったところに会場のカフェムリウイはある。これだけでもう楽しい。僕が遊星Dの前作『低き楽園』を観たのは夜風がきもちのいい時間帯だった。空間に対して窓が大きくて、アクトスペースは窓側にあって、客席は奥の壁面に沿ってつくられている。空間の中央には段ボールが積まれていて、内側からだと窓の景色が半分以上遮られている。客席から見て左側にはさっき上がってきた階段があって、ひとはそこから現れて、段ボールの影に隠れたあと、右手前に出てくる。60分で7本の短編が上演され、さらっとした転換の処理が気持ちよい。マイムのラフさや、発声の素朴さが気の抜けたいい感じを醸し出し、段ボールと窓の配置の妙で目がずっと奥と縦の方向に動くので楽しい。

 空間に置かれた俳優や観客に精神的負荷をかけないというのは狭い劇場のほうが難しく、キャパ30弱の広さで大きな声を出されたらそれだけで怖いのだが、腹の底から顔を真っ赤にして泣く声や、雑に踊り狂う長い手足が、とくに迫力もなくただ面白くあるというそのつるっとした質感がたいへんよかった。閉鎖空間で何人かが結託して大きな声や身振りを見せびらかしてくるというのはかなり脅威で、怖いことだ。だからこそ手前から奥のラインがつねに強調され、窓の向こうの景色が見通せるというのはそれだけで、いざとなったらすぐに抜け出せる、という安心があった。じつは演出も俳優もとても巧いのだが、その巧さが緊密さではなく余白として機能していたのが好ましくて、構築的でありつつも、べつに崩れたってかまわなそうな大らかさがある。ちょうど作中の人物が話の筋を見失うシーンで窓の向こう、下手最奥の階段から遅れ客がぬーっと頭から現れてテラスを横切る。その運動に気を取られているうちにそのままそそくさと上手のドアを開けて劇空間に侵入してきてしまう、その事故が鮮烈で、いいシーンだった。あまりにいいシーンで仕込みかと思った。

 遊星Dの主宰・梢はすかは必ずしも戯曲を書かないし演出もしない。出演もしない。それでも遊星Dは明確に梢はすかによって誂えられた場として機能している。ではそれがどんな場であるか。それは誰もがふらっと迷い込みうる場であり、気兼ねなく立ち去れる場である。本番を前提とした演劇の制作というのは目的遂行的な行為であるほかなく関係者を手段として抑圧する危険とつねに隣り合わせだ。遊星Dは制作にまつわる気張りをなるべく無効化しようとしているように見える。ふだんづかいの制作。生活を破綻させるような無理はせず、それでもめいっぱいの背伸びはする。そのようなスタンスで成り立つ作品だからこそ、観客もまた毎日の散歩や鼻歌のような気軽さで演劇と関係することができる。
 
 文化というのは諸現実から遊離した高等で大層なもの(だけ)ではなく、日々の何気なさの延長にあるなにものかから立ち上がるものであり、そうであるからこそ、誰にとっても他人事ではない。遊星Dという場の平熱は、ぬるぬると隣り合う誰かへと伝播していく。


▼柿内正午さまのプロフィール

会社員。「町でいちばんの素人」を自称し、文筆活動などを行う。
初の単著『プルーストを読む生活』(H.A.B)発売中。
イベント出演、原稿依頼を受け付けております。
ご連絡は akamimi.house@gmail.com まで。
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