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ごほうび。

佳祐は会社を辞めた。
都会の喧騒の中で藻掻く。息の出来ない大海に放り投げられたような、
自分は苦しんで暴れているにも関わらず、口から鼻から出て行く「泡」が
妙に綺麗だな・・・。と、冷静に自分を見つめていた。

佳祐は限界集落と呼ばれている、山村の奥深くにある古民家をリフォーム
した宿に来ていた。

ここへ来て3日目になる。

2冊だけ学生時代に読んだ本を持って来てはいたが、それを手に取る事も
なく、だだっ広い和室に組み込まれた広縁に座って、霧深く立ち込める
山々を、ただぼおっと眺めている。

「澄んだ空気が吸いたい」と思い、佳祐は広縁の窓を開ける。
小さく聴こえていた鳥のさえずりが、耳元で反響して佳祐の五感を
そっと包む。

あれだけ佳祐の中で藻掻いていた喧騒の世界はどこにも無く、
あるのは自然が自然に奏でる、自然の営みの音だけだ。

3日間、そのまま寝ては起きの生活をしていた。
振り返ると、無造作に起きたままの寝床が乱れている。

佳祐はあぐらを一旦解いて布団の方へ行き、布団を畳み始めた。

すると、後ろの方で
「ころん」と木の音がした。

さっきまで座っていた広縁の方を見ると、小さな何かが転がっている。

布団を畳み、その方向へ歩いて行くと、それが「どんぐりの実」だと
気付く。

帽子を被った、一個のどんぐり。

佳祐は天井の方を見上げ、そして広縁の外にある庭を見つめる。

何もない。

手に取ったどんぐりをそのままポケットにしまいこんで、
彼は遅い朝食を取りに台所に向かった。

和室に帰ってくると、今度はイチョウの葉が一枚。
それは、布団を畳んだ上のちょうど真ん中にあった。

綺麗な黄色をしたイチョウの葉を指で摘み、くるりと回すと
後ろに字が書いてあった。

「ごしまんび」

いや「ま」の字が逆さまになって、よく読めない。
しかし、佳祐はそれが

「ごほうび」と書いている事に気付く。

誰も居ない山村の静かな一人の中で、彼は初めて声が出た。

「ご ほうび・・・」

とてもとても小さな声で、うつむき加減で立ったまま。


あれから2ヶ月。


佳祐は新しい街で、新しい仕事にめぐり逢い、また街の喧騒の中に
包まれていた。

佳祐の机の上には、あのイチョウの葉の上に、そのまま転がっていた時と
同じ姿のどんぐりが置いてあった。

佳祐は席を立ち、会議室へ向かう。

1時間ほどして、2~3人の同僚と話をしながら、佳祐はデスクに戻って
来た。

書類を置こうとした瞬間に気付く。

黄色の付箋とともにミレービスケットの小袋が、机の上に置いてある。

付箋を見ると柔らかな字で、

「ごほうび」と書いてある。

佳祐は咄嗟に周りを見回す。

電話応対している事務員。
ディスプレイにあるチャートを睨み、何かをぶつぶつ言っている上司。
コーヒーサーバーを気にする同僚。

ふとした緊張が走ったが、そっと心が緩んだ。
佳祐は少しだけ微笑んで、その付箋を引き出しの中に入れ、
椅子に座り、

「ありがとう」とつぶやいた。

ゆうさん



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