「水」が命綱!:小谷城が堅牢なワケpart3【お城と地形&地質 其の四-3】
日本の「お城」を地形・地質的観点から見ていくシリーズ。
其の四として、前回は「小谷城」の地形的特徴と、その原因となった地質についてお話ししました。
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今回はもう1つの要因と考えられる「水」についてお話しします。
命の水
はじめにお断りしておきますが、「水」に関しては全くの私の推測です。
小谷城がどのようにして実際に水を得ていたかは分かりません。
あくまで小谷山の地形・地質的特徴から、おそらく比較的簡単に水を調達していたのではないか?という推測です。
いずれにせよ、水は大切ですよね。
食料もモチロンですが、水が無ければ4年も持ちこたえられないでしょう。
逆に言えば、例えば武田信玄は堅牢な城を落とす際に、まず水の供給を断つ戦法を得意としたと、何かで読んだ記憶があります。
つまり「4年耐えた」と言うことは、織田軍が容易には遮断できないルートで水を供給していたのではないか?と考えられますよね。
ではまず、どのように水を引いたのか?について考えてみましょう。
「地形」を利用する
私は以前、技術者として土砂災害現場の調査をやっていたので良く分かるのですが、山間地域の集落では、沢の上流部から水を引いていることが良くあります。
「水を引く」と言っても超簡単!ポンプなど必要ないので電気も不要。
水源から水を引いて溜めてろ過し、そこからホースを家までひくだけです。
水源の高さが家より高ければ、サイフォンの原理で水は自然に流れてきます。
「どのようにして水を供給していたのだろう?」と地形図を見て、すぐにハッとしました。
小谷城は、上図のように尾根の先端付近に建てられており、その標高は約340m。しかし小谷山の山頂は494.6mであり、城とは約150mもの差があります。
つまり「小谷山には、小谷城より高い場所がある」と言うことになります。
標高340mの等高線を赤線でなぞりました。
なかなかに広い範囲です。
しかも、いくつもの谷の源頭部がこの範囲内にあります。
これなら取水可能なポイントは複数あったでしょう。
1つの湧水がそこまでの湧出量ではなくても、集めれば十分な量を確保できたと考えられます。
しかも取水ポイントは高い場所にあるため、信長軍は容易には入れなかったハズ!
給水ポイントを探る
さきほどの地形図をもう少し拡大して、具体的にどの辺りから取水したのかを探ってみましょう。
地形図から湧水箇所を推定しました。
谷地形の中でも傾斜が急になっている箇所の脚部あたりです。
湧水があると、その上の斜面が崩れやすくなります。
崩れた箇所は急になり、その下は土砂が溜まって緩やかになります。
ですので、急傾斜から緩傾斜に変わるあたりに、湧水がある可能性が高くなります。
上図青丸の湧水点で水を溜められるように、石積みでちょっとしたダムをつくったり、桶を置いたり。
そこから竹や木でつくった半割れ管(雨どいのような形のもの)で導水し、斜面につくった掘割の水路に流していたかも知れません。
実際、現在でも里山農村では、緩やかな傾斜の掘割水路を斜面の山腹に張り巡らせているのを見かけることがあります。
当時、具体的にどのように水を得ていたかは分かりませんが、上記のような方法であれば、十分な量の水を確保できそうですよね。
次回は、小谷山が水を溜めやすい地質かどうか?
について検証します。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回はコチラ👇
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