1789代役公演、ありちゃんロナンの話。
こういうのは観た後すぐ書かないといけないのに、頭の中でぐるぐるしているうちに9日たちました。ぜんぜんうまくまとまらないけれど、書いておこうと思います。
いつか見てみたいと思っていた「1789」。
私は初演1789を見たことがありませんでした。星組の大劇場公演のライビュも見ずに、たった1枚手に入れた8/26東京公演(前楽)を見るのを楽しみに待っていました。
ところがその日に仕事が入り、あわあわしながら、急遽代わりに手に入れたのが8/20公演のチケット。こっちゃん休演後、3回目の代役公演でした。…1789のストーリーも知らず、初めて&唯一見たのが、ありちゃんロナンの1789でした。
私は歴代の本役ロナンとありちゃんのロナンを比較することはできません。比較できないからこそ感じたことがあるんじゃないかなと思っています。
結論から言うと、「代役公演の切迫感が、1789の話自体にぴったりはまっていて、確変が起きていたんじゃないか」という話です。
参考:ありちゃん(暁千星さん)
はじめての1789
とにかく一言でいうと、すげえ舞台でした。
観劇から一晩あけても、気持ちがとってもぐるぐるしていました。目撃してしまった!生の舞台を見た!という強烈な感情、感動、そしてちょっとした焦燥感のようなもの(後述)でいっぱいでした。
ありちゃんのロナンは、野犬のように荒々しくて、とがっていて、怒りに身を任せている、教養のない粗野な青年といった印象。その無鉄砲さ、やるせなさがとてもよく伝わってきました。目もぎらぎらしていたのが、氷解するようにいきいきと自分の人生を歩み始め、意思を持ち、人を愛して、信念のままに生きていく様子はとても分かりやすく、心に響きました。
シンプルに本質に立ち戻った役作りだったかもしれませんが、それが物語にあっていて、ありちゃんの素の魅力が生かされていて、とてもよかったと思います。
見ている我々はどうしても代役公演で…ありちゃん大変…がんばれ…よくぞここまで…といったセンチメンタルな感情を背負ってしまいますが、そのような感情フィルタで見ては失礼なくらい、舞台として、作品として完成度が高かったと思います。
ありちゃんの色気
ありちゃんの衣装がパツパツだった話はさんざんしましたが、身のびっちり詰まった長身のありちゃんが、テーブルの上に飛び乗って足を組んだり、ジャンプしたり、腿をたたいたりすると、こりゃすごいものを見てるわというかんじでした。
要するに下半身がすごくワイルドでセクシーでした。
ありちゃんロナンはエネルギーがむき出しで、直視できないほど眩しい、生(性、でもあった)の躍動感みたいなものにあふれていました。
舞空瞳ちゃんとのバランスも良くて、男役と娘役でもあり、男と女でもありました。なんというか、…色気がすごかったです。普段ない組み合わせだからドキドキしたのか、夫の留守の間の間男登場的な(表現が昭和)感じがしたのか、とにかくドキドキしました。もしかしたらありちゃんに対して、舞空瞳ちゃんの「合わせますよ」といった包容力みたいなものが生まれていたのかもしれない。二人の間に湿度のようなものを感じたのでした。
ありちゃんロナンは、初演エリザベートのシシイに似ていた
ありちゃんロナンは、ぴんと張り詰めていて、荒っぽくて、少し押したら中身が弾けそうなくらい。役と、代役公演を必死でこなすご本人の状況がリンクして、とにかく切羽詰まってる。その様子を固唾をのんで見守るかんじでした。
思い起こすと、これは初演のエリザベートを見たときの感情ととても似ています。
トップ就任後わずかの期間で、とても若い学年でタイトルロール「エリザベート」を演じた花ちゃん(花總まりさん)。いっぱいいっぱいで切羽詰まっていて、余裕がなくて、すぐ涙ぐんで、張り詰めた糸のようでした。
でもそれが、シシイの人柄や状況と一体化していた。劇場で見ていて、「人の人生を目撃してしまった」気持ちになったものです。ぞくぞくして、めったに見れないものを見てしまった感が強かった。それが今回のありちゃんにも通じていました。
こういう舞台ってめったに出会えないので、本当に幸運でした。
代役公演のエネルギー、切迫感が、革命の物語に信ぴょう性を生んでいた
そして、切迫感と、生と性のエネルギーを巻き散らかしながら舞台が進行していく星組の様子は、様々なことがめちゃくちゃに絡み合ってぐんぐんと革命が進んでいく1789の物語と、これまたとてもシンクロしているように見えたのです。これが一番の驚きでした。
ものづくりをするときって、おおまかにアウトラインを創って、そこから細部を削ったり足したりして整えていくものです。本来の宝塚歌劇は、みっちりと稽古を重ねて、いったん出来上がったところから各々の感情表現、せりふ回しを繊細に調整して出来上がっていくのだと思います。
急遽の代役公演は、その作業において、本役公演の繊細さには及ばなかったのかもしれませんが、かえってそれが革命が進むという物語にマッチして、信ぴょう性を増したようにも思ったのでした。練りすぎていないからこそ本質的な部分が伝わったというか…うまく書けない。伝わりますかね?
やり抜くという総意
舞台って総合芸術ですから、主役が突っ走って周りと調和していなかったら成り立ちません。いくらありちゃんがモンスター級のできる子でも、彼女ひとりの突出した才能だけでは成り立たないです。
歌のハーモニー、ダンス、芝居の呼吸、協調性が試される舞台において、この短時間で立て直し、ここまで破綻なく、一つの作品としてまとめられていることに、本当に驚きました。
組全体の総意としての「なんとしても、うまくやる。やり抜く」心意気がそこかしこに見られて、リアルでひりひりしました。しかも全員女性です。「ここに立つ女性たちの覚悟を見ている」と思うと、今までにない種類の涙が出ました。
そしてそこからが問題で…言葉が強いかもしれないですが、いろんなものが吹っ飛んでしまいました。なんというか、これ以下のスケールの舞台に物足りなくなってしまったというか…
小気味よいおしゃれな舞台もいいですが、私はやっぱり、演じている人の、舞台の上で生きている人のエネルギーを感じるのが大好きです。見せてもらったありがたさが違う。一番「尊い」と感じてしまう。
なんかものすごいエネルギーが渦巻いて物語がぐるぐるっと出来上がる様子を見るのが大好き。そんな舞台に出逢うために、劇場に通っているのかもしれません。
観劇後の謎の「焦燥感」の正体
今回ばかりは本当に本当に感服しました。
改めて1789という作品を知って、素晴らしさ、楽曲やシーンの精緻さ、複雑さにびっくりしました。これを急遽の主演として背負ってやり遂げて、しかも他者にものすごい感動まで与えてしまうありちゃんという人のすごさ。期待値が98だったとして、それを軽々と100に変えて、200までやれるポテンシャルを見せつけながら170くらいに着地するすごさ。
もう人としての位が違う。圧倒されてひざまずくしかない。
…なにこれ?信じられない。こんなことできるの?まだまだ若い女子だよ?その肩が背負っている大きな大きな羽根以上の大きな責任。プレッシャー。期待。お金。注目。それを跳ね飛ばしてのあのクオリティ。信じられない。人ってこんなことができるの?疲れているはずなのにフィナーレで銀橋でもんのすごいジャンプまでかましてるし。大羽根軽々と背負ってスタスタ階段降りてくるし… 最後の最後までキラキラ加減が全く褪せないし。
いろんなことが頭をぐるぐるして、すごいなあ、すごいなあ、ばかりでした。自分の道を極めている、覚悟を決めている、努力を惜しまない人を目の当たりにして、しびれました。
人として私も頑張らないといけない。私は私のフィールドで、一生懸命やらないといけない。とすこし焦る気持ちにさえなりました。私ももうちょっと、真剣に生きないといけない。帰宅して謎の焦燥感にかられて、一生懸命仕事を始めました(笑)
というわけで、全くまとまっていないのですが、心が整理できていない状態が続いているのもまた事実だと思い、そのまま書きました。
あの時間だけは、ありちゃんを見つめながら、たしかに私もフランスにいたような気がします。素晴らしい経験。本当にありがとう。ずっと忘れません。
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