橋の上のデン子ちゃん [short story]

 人気(ひとけ)の無い山。岩肌にへばりつく小さなダム。その上に架かる高い高い鉄橋――。
 いずれも特に珍しいものではなく、普段は地図上の印でしかないただの点なのだけれど、そんな場所へわざわざやって来たスーツ姿の若い男は――橋の手前にある深い茂みの中に車を止め、表に何やら"遺書"などと書かれた真新しい茶封筒をひとつ車内に残し、まるで悟りきったような顔立ちで、橋に向かって静かに歩き始めた。

 もう一方の橋の袂には、ピンク色の自転車が置かれている。男は、橋桁のすぐ側に佇むセーラー服姿の少女を見た。ぼさぼさの髪に、いかにも気弱そうなその佇まい。眼鏡の奥の憂いだ瞳は、ただまっすぐに、揺れるダムの水面を見つめていた。
 ……ああ、そうか、彼女も俺と同じ目的でここに来ているのだな、と男は悟った。
 次の瞬間には、嬉しくなった。同士だ、同士が居たのだ。
 一方の少女は、男の姿には気づかないまま、橋桁にもたれてただ水面を眺めている。山頂から垂れ下がる幾本かの太いケーブルが、淀んだ水面の上へその姿を写していた。

 男の気配に気がついた少女は、ぎょっとしてそちらに振り返る。
「あっ! 驚かなくていいよ」
 男は少女をなだめるように、落ち着いて、落ち着いてのポーズを取りながら、出来るだけ慎重に言葉を選んで話しかける。
「うん、わかる、そうだよね、誰だって邪魔はされたくないよね。俺だってそうさ! ……えっと、別に、怪しい者じゃ、ないよ」
 少女は怪訝な表情になる。男が一歩歩み寄ったので、少女は反射的に二歩後ずさりした。
「違う違う! 大丈夫。俺も君とおんなじなんだよ。おんなじ理由でここに来てるのさ。ねえ、何ていうかさ、……お互いもうこれまでじゃない? どうせなら最後に君とお話したいかな、とか……」
 男は一歩下がったが、少女はさらに後ずさりする。
 驚いた男は、慌てて少女の元へ歩み寄ってしまう。
「嫌だ、来ないで下さい、来ないで下さい!」
 身の危険を察した少女は、足下にあった学生用カバンをとっさに掴み、男の頭目掛けて振り回した。カバンは男のこめかみを直撃、その勢いで鉄橋の桟にも頭をぶつけ、男はうなり声を上げながらその場にうずくまった。
 あまりにもあっさりと男を撃退した少女は、今のうちに自転車の元へ走り去ろうか、一瞬考えた。

 男は丸くなったまま泣き出した。ここまで来て何してんだ、俺。無様な自分に涙が出た。
 抑えていた嗚咽が漏れる。止まらない。
 これまで大切に取っておいた、橋桁を乗り越えるための最後の気力すらも、体から流れ落ちていった。
 一方、その男の様子を観察していた少女も、結局この場から去ることが何となくためらわれた。弱々しいこの男、まるでこのまま橋の下へと飛び降りかねないように見えたからだ。
「あの、そんなに泣かなくても……」
 男は即座に顔を上げた。もう一度少女が声をかけてくれるのを待った。
 ふたりが見つめ合う。荒い呼吸。グシャグシャの顔。男の上唇から滴る鼻水が、地べたをべとべとに濡らしていた。

 ……それは、あまりにも間抜けな姿だった。少女の顔色が再び曇る。優しい言葉をかける気すら失われた。
 思わず、感じたままの言葉がこぼれ出てしまった。
「……キモい」
 男の目が見開かれた。少女の言葉は止まらない。
「いっ、いい年して何よ、丸くなって。赤ん坊じゃないんだから。みっともないカッコしてさぁ」
 或いはここまでなら、少女も後戻りが出来たかもしれないが、その言葉にはさらに熱が篭っていく。
「ちょっと、そんな顔でじろじろこっちを見てないでよ、すっごい気持ち悪いから!」
 吐き捨てるように語尾が強調される。男が怯む。一方の少女はなおも男を罵った。
「ほらぁ、いつまで地面にへたり込んでるの? それとも腰が抜けて立てないの? あはは、だっさいなぁ。ねぇ、こんな事言われて悔しくないの? プライドとか無いの? それでも男?」
「ああぁ、そんな……」
「女々しい声出さないでよ、気持ち悪い。泣き言しか言えないの? 女子中学生に罵られてるのに? あんた人間の屑じゃないの?」
「やめて、やめて……下さい……」
 男はすがるような目で少女を見上げる。少女はますます凶悪な笑みを浮かべる。それを見た男の表情も不気味に緩んだ。恍惚。
「やだ、やめないよ。だいたいこんな昼間から山奥でフラついてるなんて、いいご身分よねぇ? そうだ、当ててあげようか。あなたは引っ込み思案で勉強が出来ない、しかも取り柄もない……」
 少女は明らかに興奮しながら、さらに前のめりになって男へと近づく。対する男は、まるで籠の中で追い詰められた小動物のように、その場から動けないまま小刻みに震えていた。自分でも気が付かないほどにカッと見開かれた瞳を男に浴びせながら、少女は続ける。
「……家じゃ親と口喧嘩だし、友達もつまんない奴ばかり。毎日何も楽しくない、そうでしょ? 話し相手が居ないから、自分に話しかけてばかり。クラスん中に居るのだって嫌になる。だからこうやって教室から抜け出して来ては、日がな一日誰も居ない場所で時間つぶしているんでしょ? あはははははは! きめぇ! ばあっかじゃないの? ネクラ! 弱虫! ダメ人間!」
 少女は語尾を強めながら、男をスニーカーで力一杯踏みつけ始めた。男は避けようと身をよじるが、ほとんどろくに抵抗せずに、少女の攻撃を受けるだけだ。
「クズ野郎っ! ゴミ野郎っ! 存在、価値が、ないっ! 素直じゃ、ないっ! ホントの、ことが、言えないっ! だめな、だめな、だめな……、ダメ人間っ!」
「ああぁあぁ……、やめてぇえぇぇ……」
 少女はなりふりも構わずに男を踏みつけ続ける。男も、まるでそれが心地よいかのように、なすがままにされている。
 その、余りに満ち足りた恍惚で、ふたりとも気づかなかったが、少女のその瞳からも、一粒の涙が零れ落ちていた。
 まるで、互いの間に鏡が挟まれているようだった。

 男が我に帰ったときには、少女はもう橋の袂で自転車に跨ろうとしていた。
「あぁ! もう行ってしまわれるのですか?」
 男は泥だらけのスーツを払いもせずに、ふらふらと立ち上がる。
 ペダルに足をかける。
「あぁぁりがとうございましたぁ! 私、分かったのです。私は……ずっと罵られたかったのです。誰かに自分を叱って欲しかったのです。……オオ! まるで生まれ変わったかのような清々しさ!」
 あらゆる分泌液でグシャグシャになった顔を両手でぬぐった男は、やがて思い出したように――。
「そうだ、せめて……お名前を! 名前をわたくしめにお聞かせ下さいぃぃ!」
 背中から男の叫び声。少女は、特別に振り向いてあげた。
「名前? 名前はね、えっと……」
 まだ恍惚の中に居た少女は、うわ言のようにそう呟く。首を逸らした先に、先ほどまで眺めていたダムの底があった。だが今度は、頭をきりりと上げて、視線を山頂まで滑らせる。鉄塔。
「……デン子ちゃん」
「はい?」
「わたしの名前よ。デン子ちゃん。文句あるっての?」
「あぁあぁぁ、いいいいえぇ!」
 学校の方向へとペダルをぎゅっと戻してから、少女は右足を強く踏み込み、自転車は滑り出す。
「そう、デン子ちゃん! 私の名前はデン子ちゃん! ははははっ!」
 ぽかんとしたままの男を残して、自転車は一気に坂へと入っていく。
 髪が泳ぐ。気持ちいいな、と少女は思った。今なら自分で何でも変えられるような、そんな予感にうずうずしていた。
 最後にもう一度だけ振り返り、少女は手を大きく振りながら、男に向かって声を張り上げた。
「それじゃあね、デン子ちゃん!」




(2009)


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