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「責任」という言葉に思うこと

まるで、人を切り捨てるように使われてしまう「自己責任」というワードは、正直あまり好きになれないでいます。

一方で、「人が幸福に生きること」と「自己責任」は、切っても切り離せない関係性であるということも、また事実だと思っています。

あなたは「責任」という言葉に何を思いますか。
どのようなイメージを抱いていますか。

今回は、幸福と自己責任というテーマです。

この記事は、読み方によっては捉え方が180度変わるため、諸刃の剣にもなりかねないなと公開をためらったものになります。おそらく、不快に感じる方、あるいは視界が拓けたと感じる方とで、二分されると思っています。

それでも記事の公開を決めたのは、一度きりしかない人生において、「気付き」によって不必要な後悔をせずに済む方が一人でも増えるのであれば、という願いにも似た想いからです。

現在のあなたへ、もしくは未来のあなたへ。
そして、過去の自分に送ります。


選択と納得

私たちが生きるこの世界は、たとえ法の下には平等が保障されていても、残念なことに、誰もが平等に幸福を享受できるわけではありません。

そもそも「何を以って幸福か」と定義付けをするとなると、この場ではスペースが足りなくなってしまいそうですね。

では、ここでの「幸福」とは、「自分が幸福だと思えること」あるいは「自分は不幸だとは思わないこと」としましょうか。

私は、上記の「幸福」を考える上で大切な要素となるのは、自らの意思で選択し、決定することだと考えています。

言い換えれば、価値判断基準が他人軸に依存していないということです。

たとえ出来事が上手くいかずに後悔することとなっても、自分が意思決定した結果と、他者が意思決定した(他者に意思決定させられた)結果とでは、後悔の度合いは全く異なるはずです。

何故だと思いますか。
大きな違いは「納得できているかどうか」だからです。


他者のせいにするという覚悟

私たちが生きるこの世界は、思い通りになどいかないばかりか、むしろ理不尽なことの方が多いのかもしれません。(生きるって大変です)

賛否両論ありそうですが、個人的には「自分の今の不幸は他者のせいだ」という考え方について、否定派ではありません。誰かのせいにしてもいいし、一生許さないままでもいいのではと思っています。

ただし、「誰かのせいにするのも、一生許さないままでいるのも、それは自分が望んで納得した上でそうしている」という感覚を忘れない、という条件付きであれば、です。そこに、覚悟や誇り、信念があるのであれば。

体感的な話にはなりますが、他者を責め続けている人で幸福そうな人に、私はこれまで出会ったことがありません。

責め続けることは、さながら呪縛のようなものなのかもしれないなと、よく思います。なぜなら、その該当者を自分の中に共存させ続ける、生かし続けるということだからです。

その該当者が自分の内側に存在する限りは、ずっとその人に恨まされ続け、その人に支配され続ける。

それがどれほど過酷なことであるかは、想像に難くないでしょう。

好きこのんで、他者を恨みたいと願う人などいないはずです。
好きこのんで、過去を忘れられないままいるはずがないのです。

つまり、自分が希望して納得し、引き受ける覚悟が無いままに、他者を責め続け、一生許さないままでいるということは、苦しみ続けることを「選ばされている」(正確には選んでいるのは自分なのですが、感覚としては「選ばされている」に近いように思います)ということになってしまうわけです。

それは、価値判断基準を他人軸に依存させることと同義です。そして、そのことに気付いていない間は、他者を責め、それにより自分が傷付き(無自覚であっても)、さらに他者を責めるという、そのループから抜け出すことは難しいように思います。

逆に言えば、価値判断基準を自分軸に取り戻すことさえできれば、その循環を断ち切ることは可能なはず。それは、希望とも言えるのではないでしょうか。


幸福と自己責任

私たちが生きるこの世界は、各々が各々の人生を生きることしかできません。

自分が他者の人生を生きられないように、自分の人生を他者がどうにかすることはできないのです。残念なことに、それがどれほど不条理であっても、です。

たとえば「誰も自分を幸せにしてくれない」あるいは「こんな世の中で幸せになれるなんて思えるはずがない」などと、悲嘆に暮れてしまうことは、私は致し方のないことだと思っています。誰かを、何かを責めなければ、心を守りきれないときがあることを痛いほど知っているからです。

それでも、あえてお伝えしたいことがひとつだけあります。

もしできるのであれば、自分自身にそっと問いかけてみてほしいのです。

他者や環境に責任を求める私自身は、私を幸福にしようとする責任を手放してはいないだろうかと。

何を幸福と意味付け、定義するか。
自分が幸福を選ぶか、選ばないか。

これらを決定するのは他者や環境ではなく、私たち個人の自由であるはずなのです。

私たちの人生を他者がどうにかすることはできませんが、私たちは自分がどう生きたいかを考え、行動することができます。大丈夫、遅すぎるということはありません。

私たちの人生を他者がどうにかすることはできませんが、力を借りたり支え合ったりすることはできるはずです。一緒に悩み、道を模索することだってできるはずです。

幸福を含め、私たちは自分の人生を引き受けていく。

自分の人生を生きるということが、自分にしかできない役割であるのなら、それは誇るべき、尊い責任であると言えないでしょうか。

例外なく、誰もが絶対的な価値を持ち、この世に生まれてきました。
そして、その価値は生涯変わることのないものです。

自分に限っては価値なんて最初から無いように感じるのであれば、それは決して無いわけではなく、ただ見えなくなってしまっているだけなのです。

どうか、あなたがあなたの人生を生きられますように。
あなたが、あなたを幸福にする生き方を選択できますように。

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