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可能性の限界を示す

昨夜1週間の福岡でのたくさんのインドの皆さんたちとの合同研修を経て自宅に帰ってきました。

インプット多めな研修と違って終始ずっと議論と発表を聞いている時間だったので学びを言葉に落とすのに時間がかかります。何を得たのか学んだのか
本当に分かるのは数年後なのかもしれません。

敢えて言葉に頑張ってしようとすれば
その議論の過程でしょうか。


異なるコミュニケーションの文化やバックグラウンドを持つ人たち同士で何かをつくる面白さや難しさ、参加しているインドメンバーのスピード・豊富な知識・思考・長けた議論する力・つながる力はやはりすさまじいものがあります。正直自分の力不足をありとあらゆる場面で感じ打ちのめされて帰ってきました。それはすごく大事な経験でありがたいです。

あとは、移動時間や食事の時間等含め皆さんと話す中で改めて知るイギリスの植民地文化と歴史、全員英語を話せる反面失ってきている母語(地域の言葉では話せても文字は書けない)、住むエリアやジェンダーやカーストによる偏見、温かい関係性、ルールより人の関係を重んじてなんとかしようとする文化、、ともに何かをつくろうとすると結果的に相手の文化をよく知ることになる。協働は平和への一歩というそのプログラムのメッセージを深く感じる時間でした。

プログラムは多様なバックグランドや才能をもっている人たちが集められているのでその多様性にも改めて触れられました。
インドの数学の大会かテストかで10位を取ったという人もいて、その人は
「メニューを見てみても隣の人がどのくらいの確率でこれを選ぶのかとか
とにかく何を見ても考え始めてしまう」とのこと。また言語の習得能力が半端なく、小さいころから何か国語も習得してしまいプログラム期間中もホテルにあったピアノを一度も習ったことがないのに音をひろって数時間でなかなか弾けるようになっている等超絶ギフテッドな人もいました。
また、紛争についての専門家もいて、インドからみえる日本の立場や
世界各地の紛争についての考え(楽観的な要素はほぼありませんでした)を
共有してくれました。とにかく日本はもう少し自分たちが
置かれている状況をもう少し外からみたほうがよいという話もありました。

テクノロジーの力


また、「テクノロジーと社会課題を日印で考え何か生み出していく」というプログラム(かなり平たく説明すると)なので、その中でも教えてもらえるテック系の話はとても新鮮でした。でも改めて「この技術でこんなことをできる!」と言っているうちは相手にされず、結局は
それで誰がどんな風に幸せになるのか。
その人はその商品やサービスを本当に使える環境・文化・家庭や村の中の関係性にあるのか。その議論の過程がどれだけの多様な人の視点(特に様々な経済的文化的特権を持っていない人の)を取り入れられているか。ということが本当に大事だということ。そこは何一つ変わらずテクノロジーはそこに向かうための一つの手段でしかないんだよなということは思いました。

・AIはいろんな「効率化」や人の助けになることはたくさんできる。その為の適切な指示をどれだけ使うか使えるか。スマホネイティブな世代からこれからはAIネイティブな世代がどんどん生まれていき、そのAIにその指示も考えさせながらどんどん可能性を広げていく。
・AIが出す答えは正しくないことが多いので敢えて「問い」を出させる。人間同士に考えさせる場面を与える
・AIを使ったとき使わなかったときそれによっての答えの導かれかたの違いに気づいていく教育プログラムの必要性(既にゲーム方式のプロダクトが数か月でできていました)
AIは人の可能性の限界をこれから示す。だからといって人の可能性が
 狭まるとか人間がいる意味ないいうわけではない。その限界と
 AIの限界を踏まえて、「自分」ができることを考える。それだけだ。
 ※個人的にはこの「可能性の限界を示す」という言葉がとてもポジティブに語られていたことがとても新鮮でした。

そんな言葉が心に残っています。

ナラティブの力

ナラティブ(語り)の力も感じる時間でもありました。
人の語りには、嘘も本当もない。その人にとっての「本当」であるということだけが存在する。

課題を解決しよう、こういう層にターゲットを絞ろう、そこに対して適切な解決策を考えよう、インパクトを考えよう。そんな流れがあちこちにあります。もちろんそれ自体は素晴らしいですが、本当にそこに「課題」があるのか。「課題」をつくって人を救おうとしている自己満足ではないか。解決してあげるといって逆に混乱をまねいていなくなってしまうということが起きていないか。そんなことがあるため、私たちのプロジェクトは「ソリューションを考える」ありきでスタートしないというところにこだわり、結果一番難解な理解が難しいプロジェクトになりました。人によっては「まるで整理されていない」「誰の為に何が起きるのか全くわからない」内容ですし、人によっては「本質的」と捉えられるし、、まあ非常に評価がわかれたと思います。

ただやはり「人々の語り」にあるまだ社会のなかで名前がついていないたくさんの事柄があって、その人の中にある絶望感や喜びがどこからくるのか、何故それが世代にわたって起き続けるのかを慎重に見ていく過程に非常に時間をかけていく、そのデザインプロセスをたくさん教えてもらいました。こまちぷらすもやっていることは多くは「カフェにくればこれが解決します」ではなく、「解決しないということの価値」に重きを置きますが、散々議論した上でグループの中でお互いにそれをとても大事にしているということに深く共感し合えたときは本当に嬉しい瞬間でした。

まずは人々の声が「そこに参加していること」「そこにエンゲージされていること(日本語訳がないのであえてエンゲージ)」「その声が代表されること」「その声が含まれること(インクルード)」ということが大事。

そのためにできることは、それがしやすい環境整備。その環境整備のためにいは、人々が語りにくいことを語れるようになる、その助けとなるツール開発をしていく。その結果見えてきた声をいかに多くの人に見てもらい、考えるヒントにテクノロジーの力を使ってできるかということが取り組むことになります。その何をするか、よりその何をするかまでの構造理解に時間をかける塩梅がとても勉強になりました。


こまちぷらすの活動に大変関心をもってもらった方々が数人いて広がるために力になりたいとお話しくださったり、やっていることの意義や目的にパッションを感じると本当に親身になって一緒に考えてくれる方々だなと(すぐに行動にうつしてもくれる)思いました。

来週は2人ほどこのプログラムの参加者(インドからの参加者)が
都内にきたついでにカフェに立ち寄ってくれることになりました。
チャイのつくりかた教えるよとのこと。スタッフがずっと考えてくれていたと聞いているのので、嬉しいです。