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生きる力

自分のために綴るnote。
今年もとうとうやって来てしまった…そう春の恐怖、花粉。
くしゃみが止まらないyumiigoです。

小学5年生で一生治らないと噂のスギの重度のアレルギー診断に絶望して早くも30年以上。
花粉症ともなんとか折り合いをつけてやってきている。

小学5年生の私よ、確かにまだ治っていないよ。不治の病は間違いじゃないらしいよ。
でも絶望することはない。
あの頃よりはマシになっているから。
と慰めにもならない言葉を送りたくなる。

年齢を重ねたことで対策もある程度できるようになった。
薬も進化しているし、花粉症グッズの多彩なことったら。
今年はこれを試してみるかーなんて、この時期の私のイベントみたいになってるじゃないか。

人間なんでも慣れるものなんだな。

大人になって食べられるようになった1つ

環境が自分を作るのか、自分が環境を作るのか。
両方の相互作用っていう中庸な感じが正解っぽくも思える。

最近の私は"なんかタイミング良かった"ということが多く起こる気がする。

え、こんなことになっちゃったけど大丈夫かな?という状況に対して次に起こる出来事が返ってそこにフィットした、みたいなこと。

うっすらと予想外の好ましくないと感じる出来事があった後に、むしろその出来事のおかげて救われたってことが少なくない。

自分の中で状況に対してベストな選択を常にしようと頭を働かせているつもりなんだけど、あまりにそんな偶然のラッキーが続くと、自分の判断なんかアホみたいに思えてくる。
むしろ、そんな偶然の産物を期待して、成り行き任せにしたくなってきてしまうのだ。

別に考えることを放棄したい訳じゃない。
ちょっと不安にさせられてからのラッキーっていうドキドキ感を期待してしまう自分がいる。

でもそういうのって意識的に待ってる時って来ないものなんだよね。
しかもそれに期待しちゃったら神様も調子に乗るなと急にそっぽ向かれてしまいそうなイメージもある。

先が読めない時代とか言われてるけど、それも思いもよらない方向に返って良いじゃんって思える未来に繋がればいいのに。
期待し過ぎずにある程度自分も良くなるように頑張るからさ。

そんな感じで環境と自分の歩み寄りみたいなことを潜在的な意識レベルで思ってみたりして。

思っているより人は柔軟になんでも対応出来ちゃうって武器(むしろ防具か?)なんだと思う。

環境もそれになんとなく寄せられて整っていくような、非現実的なことでも目の前に起これば、これが現実世界なんだなってすんなり受け入れられちゃうかんじ。

良い方に向かってる。
誰かから見たらどん底の環境に見えるかもしれないけど、それは良い方向に流れる前兆だ。

それに合わせていける柔軟さをちゃんと誰しも持っている。

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