平穏で冷淡な世界
自分のために綴るnote。
最近自分の感情と理性のバランスを考えているyumiigoです。
社会人生活も長くなると、感情と理性は分けて行動できるようになるもので。
散々noteでは愚痴をダラダラ書いている私でも、会社では笑顔で誰に対してもいつも同じ態度を心がけている。
何より私のプライドで、周りに"あの人は今日は機嫌が悪そうだね"と思われたくないという気持ちがあるのかもしれない。
自分の感情を読まれたくないし、勝手に判断されたくない。
人によって態度を変えるのも好きじゃない。
仕事の中で私の感情は、演技であって演出みたいなものだ。
周りと円滑に仕事をするために笑ったり驚いてみたり、その時々で相手に同情してみたり。リアクションはでかいけれど、ほぼ私の感情とは別の理性的な判断による表現で"見せたい自分のキャライメージ"でしかない気がする。
私の心の中にはとても冷静に相手を眺めているもう一人の私がいつもいるんだ。
長い間、私には嫌いな人がいなかった。
それは表面的には悪いことではないように思えるかもしれない。
でも嫌いな人がいない私には、この世界がとても生きにくかったんだ。
私には嫌いな人もいなかったし、好きな人もいなかった。
つまり、この世の中に関心を持てる他人がいなかったのだ。
ひどくつまらない世界だった。
何も楽しくないし、興味を引くものもない。
好きも嫌いもないのは人だけの話じゃない。
固執するものも思い浮かばない。
何もかもが"どうでもよかった"のだ。
そうすると周りには”良い人”と言われるようになるから不思議だ。
人に反発することもないので、いつも温厚で穏やかな人だと思われて平和なのだ。
仕事の現場では円滑にトラブルが起こらないように日々業務を回すだけ。
そんな世界はとてもつまらなくて怠惰な毎日だった。
毎日貼り付けた笑顔で、周りにそつない態度でいる私にとって、日々は平穏で冷淡な世界にいる感覚だったんだ。
あれから失業して再就職をした。
環境が変わり生活が変わって、新たな出会いもあった。
私に転機が訪れたのだ。
それと同時に苦手な人ができた。
これまでと同じようにそつなく誰とでもうまくやっていけると思っていたのに。
イライラすることが増えた。
"私はこの人が嫌いなのかもしれない"
上手くやり過ごせない人との関係がそこにあった。
嫌いな人を認識すると、嫌いじゃない人も明確になってきた。
そうしたら不思議なことに色んな感情がきちんと私の中に浮き上がってきて、曖昧な冷たい世界の明度が上がってきて、色を帯びてきたような感覚になった。
毎日ストレスは溜まるしイライラすることも多くなってきたのに、生きることに疑問はあまり感じなくなった。
苦手な人に対して試行錯誤する私がいて、それを誰かに相談してみたり、いろんな価値観を持つ人の存在を認識した。
それはとても自分の中で興味深いものだった。
イライラする日をなんとかしようとしている内に、それもひっくるめて気づけば充実した1日の中の一コマになっていた。
感情がなければ円滑に仕事もできるのにと思っていた私の世界はつまらなかったのだ。
感情がこの世界に色をつけて楽しませてくれているなんて、至極当たり前なことを私は分かってなかったんだと思った。
そうしたら自然と私の感情は演技でも演出でもないことが増えてきた。
ネガティブな感情でそれを理解する私というのも面白い。
一見マイナスに感じる感情も悪いものではないのかもしれない。
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