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ADHDの息子と読解の授業

言わば読解とは、国語。
文章を読んで感じたこと、感じ方が問いになるあの教科。
読書は好きでも、全く関係ないようだ。
ADHDの息子は、行間を読むことができないから
例えば
「夕焼けに別れた彼氏の背中をずっと見つめていた」
みたいな哀愁ただよう描写でも
「彼氏の背中にカメムシでもはりついてたんかな?」
と思ってしまうw
えーなんだか切ない気持ちになるジャーン
って私が言っても
「え、それどこかに書いてある?」
とそんな感じ。
だから読解の授業は手をハイハイあげるくせに
ズレてる持論を永遠に繰り広げるもんだから友達が大笑いw
オマエの持論、最もらしく語ってたけど論点ズレてるからなー
とか
オマエの持論が面白すぎて読解の授業が面白くなったwと別の意味で活躍している。堂々と発表するんだから、バカにされようがない。

息子がADHDと診察された日から
ADHDである事を誇りに思えるように育ててきた。
間違えかな?と思っても素直に手をあげたり
持論を胸張って言えるのはADHDの良いところだって思うから、そこを潰さないようにしてきた。

中学受験でも国語(読解)能力は要。
だけど宇宙人なのかと思うほど全然できなかった。

なので、「棒線から離れてないところに大抵のヒントがある」とか、「親指の長さぶんで大体何文字、人差し指で何文字」というような、テクニックやADHDの特性である規則性に寄せて勉強させてきた。
とたん成績がグングン伸びた。

お陰で回答の意味はよくわからんが、出題者が何を答えて欲しいかはわかる、というなんともドライな状態に仕上っていったもので。。
中学からの読解力、ここから先は精神の成長を待つしかないか。。

読解の中での人の気持ちはよみとれないけど、実際の人間で、困っていたり悲しい人は一番にわかるんだよね!
しかも自分が苦労している分、相手に対する許容範囲が広い。
小学校でもいじめられて、先生に連れられていじめっこが謝ってきたときも、「全部許す!オマエは何も悪くない!」
なんてよく言ってたなあ。
私なら許せないけど。。。って何度思ったっけ(笑)

息子から優しさのハーモニーが生まれていったな。

読解力は全くないけど、すぐ近くにいる人の心の中は読みとれる。
どんな気持ちで、謝ってくれたのか。
その場しのぎかもしれないけれど、謝ってくれた相手の気持ちにかけてみる。
ADHDの息子の、幼さというのか、その素直さというか、鈍感さというか。

読解力とどちらの力の方が、
最終的に、人間的には必要なのでしょうか。







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