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映画『僕は君たちを憎まないことにした』を観て、私も人を憎まないことにしようと思った

昔、スナックで働いていた時、ちょっと悪そうなお客さんに「あんたはここぞという時、人を殺せるタイプの人間だ」と言われたことがある。ああそうだろうなと思った。もしも誰かによって大切な人の命が奪われたら、私は報復に行くだろう。返り討ちにあったっていい。私はそういう人間だと思う。

幸いそんな機会は訪れず平穏に暮らしていたので、その会話をすっかり忘れていたけれど、映画『僕は君たちを憎まないことにした』を観て思い出したのだった。

映画は、妻をテロリストに殺害されシングルファーザーとなった男性が、テロリストを「憎まない」と決める話だ。実話である。男性が日々、自分や苦しみと戦い、子育てに奮闘し、思い出に折り合いをつけながら生きていく姿が描かれていた。

何度もよみがえる妻との思い出や、つきつけられる現実、部屋中を歩き、ママを探す子ども。子はそのうち母親を探さなくなるが、ある日気付いたらママのクローゼットの中に無言で座り込んでいたりする。「ママ」と呼ぶ声が切なく、「パパ」と呼ぶ声が苦しい。そんな映画だった。

私は映画を観ながら、犯人を憎まないと決めた主人公は一見かっこいいけれど、でも正直なんのために?と思った。しんどそうじゃん。無理じゃん。メンタルもたないじゃん。こんな目に合ってまでいい人でいることに、いったい何の意味があるの?と思った。あなたひとりがいい人になったって、この世界は変わらない。

そんな私を制するように、男性はこんな台詞を言った。
「僕が憎しみでこの子を育てたら、この子は奴らと同じ人間になってしまう。憎しみに満ちた人間に。」「この世界の嫌なところばかりを見て生きるのではなく、素晴らしいところを見て生きてほしい。」

この台詞に、ちょっとびっくりするくらい涙が溢れてきた。
ああ、そうか。そんな風に考えなきゃいけない。
私は母親になったのだから、そんな風に考える人間にならなくてはいけない。

そのシーンを見て思い出したことがある。母とのちょっとしたやりとりだ。
私には父親がいないが、離婚の理由を聞くと母は必ず「私が悪かった」と言った。突っ込んでも「ぜんぶ私が悪い」の一点張り。私は実の父親がギャンブラーだったことを知っていたので、母がぜんぶ悪いってことはないだろうと思ったけど、頑なな母を見て、それ以上聞くのを辞めた。子ども扱いされたんだなとその時は思った。

だけど映画の台詞を聞いて、ふと思った。
母は私に、男や人間に対して絶望して欲しくなかったのかもしれない。

私がもし、大切な人をテロで亡くしたら、できる限りやり返したい。復讐を人生の目的にしてしまうかもしれない。
だけど私はもう、そんな人間でいてはいけない。そんな姿を息子に見せてはいけない。どれだけ悔しくても、苦しくても、絶対に憎んではいけないのだ。私が母親である限り。

映画は、憎まないと決めて終わりではない。憎まないと決めた後も続く、長く苦しく、だけど愛しい人生を描く。男性は、テロリストを憎まないと決めた自分とずっと戦っていた。きっとその後の人生も戦い続けるだろう。怒りの矛先をどこにも向けないと決めたことで、何度も自分に向かってくるのだ。憎むより苦しい。その苦しみが半永久的に続くこともまた苦しい。

だけど男性はもがきながらも、息子との間に笑い会うひとときを築き上げていた。それは男性がもがいて、努力して手に入れた平穏だ。決めることの強さ、何度も決め直すことのたくましさ、親としての覚悟を見た。私はこれから、ここぞという時、踏みとどまれる人間にならなくてはいけない。強さをわけてもらえる映画だった。私も人を憎まない人間になりたい。

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