“安定した人生”とは一種の宗教なのかもしれない

それなりの良い年齢である。
周りを見渡せば、それなりの数の友達が結婚をしたり、子供を産んだり、家を買ったり、車を買ったりと忙しなく生きている。

日本人の多くは無宗教だが、例え無宗教といえども人生における心の拠り所は必要である。
いわゆる価値観というやつだ。

コロナ禍で人との物理的・精神的距離感が生まれて、自分自身の考えと向き合う時間が増えてから、友人や家族との価値観の違いを目の当たりにするようになった。
無駄に落ち込まないためにも、今は「価値観の違い」ではなく「宗教の違い」なのだと思うことにしている。
価値観の差異として議論をしてしまうと、ときにまるで互いを否定し合っているような気になってしまう。だが宗教レベルで考え方が違うんだったら、分かり合えなくても仕方ないかなと、むしろ違いを楽しめたりもする。

私は“やりたいことをやりたい教”である。
エンタメ業界で働きながらプライベートでも曲を作り、文字を書き、オタ活をし、とにかく24時間好きなことをしていないと気が済まない。

一方日本でメジャーな信仰は、安定した人生の追及である。
そんな信仰を持った人々のことを、私は“安定した人生教”と呼ぶことにした。

先日、“安定した人生教”の友人たちとオンライン飲み会をした。
楽しい飲み会ではあったものの、私にとってはなかなか難しい台詞のオンパレードであったのもまた事実だ。
懸命に理解しようと頑張っている私の表情を想像しながら、是非一度読んでみていただきたい。

①「人生進んでるよね」

まず1つ目。
これは未婚の“安定した人生教”の友人が、既婚子持ちの“安定した人生教”の友人に投げ掛けていた言葉である。
いわゆる「ライフステージ」的な意味だろう。

耳馴染みのある台詞ではあるが、“やりたいことをやりたい教”の私からすると、進んでいる人生とは例えば趣味でお金を稼いでいるような生き方などであり、今やりたいことをやれている私自身の人生も悪くないところだ。
もちろん結婚と子供が長年の憧れであったのならば、既婚者子持ちの状況は「人生進んでる」のかもしれない。「あんまイメージなかったけど、この友人はすごく結婚して子供を産みたくて、だから人生進んでるって言われているのかな」というちょっとズレた解釈で自分を納得させながら、私はお酒を啜る。

②「でも俺だって離婚するかもよ?」

これは既婚の“安定した人生教”の友人が、未婚の“安定した人生教”の友人を励ますために用いた台詞である。

“安定した人生教”において、離婚とは不幸の象徴らしい。
まぁ、そりゃそうかもしれない。お金をどうするとか子供をどうするとか、安定とは正反対の懸念点がたくさん付随してくるのだから。

だが“やりたいことをやりたい教”の身からすると、特に円満離婚の場合、離婚したくて離婚するのであればむしろ幸せへの第一歩のようにしか思えない。少なくともズルズルと好きでもない人と一緒にいるよりは遥かにマシなように思える。
離婚の可能性が何故未婚者への励ましに繋がるのだろう、などと考えに耽りながらまた酒を啜る。

③「俺はモテるから」

これは未婚の“安定した人生教”の友人が、同じく未婚の私に対してマウントとして用いた台詞である。
何だそりゃ。

“やりたいことをやりたい教”の私は、とにかく身の回りを好きなことや好きな人ですべて埋め尽くしたい人である。
子供は好きだけれど、子供を産むことだけを目的にたいして好きでもない人と生涯を共にするのは御免だ。
好きな人と子供を産んで、細々とでも好きな仕事を続けたい。そして老後は趣味に全力を注ぎながら、好きな人と手を繋いで公園を歩きたい。

逆に言うと、“やりたいことをやりたい教”からすると「モテる」という状況は割と恐怖である。
別に好きでもない奴がわらわらと群がってくるのだ。そんな悲劇的状態になるくらいなら、1人きりで趣味に没頭させてくれと思ってしまう。
愛されるよりも愛したい、まじで。

まぁもちろん未婚くんがモテることは喜ばしいことだし、それにより彼が元気づけられているのであれば、是非これからもモテ続けてほしいところだ。
などと優しく思いながらまた酒を啜る。

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そんなこんなでオンライン飲み会が終わる頃にはすっかり泥酔してしまった。
ふるさと納税で頼んだウイスキーは、罪なほど美味しかった。また頼むことにしよう。

それにしても少し離れた場所から客観的に眺めていると、“安定した人生教”の人たちはなかなか生きづらそうだ。
何歳までに結婚して、何人の子供を産み、何百万円稼いで、何年間のローンで家を買ってと、まるで数字に支配されているようだ。しかも少しでも理想とされている数字に及ばないと、今から努力してももう遅いなどとぶつくさ言いながら、他人を羨み、どうしようもできない過去の自分を後悔し、さらに最近は安定への道のりを脅かすコロナという存在にも怯えなければいけない。とても大変そうだ。

もちろん“やりたいことをやりたい教”も、けして見た目ほどには楽ではない。我が儘な自分を満足させ続けるのは、これはこれで大変である。
だが1つだけ断言をすると、安定という狭い線路からもし多少外れたり、転げ落ちたりすることは、別に本人が思っているほどには悲劇的な事柄ではない。
道端の花でも眺めながらまったり歩く人生も、実はとっても幸せなのだから。

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