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『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』のリバイバル上映を映画館で観て、心に染み入った38歳男性の機微

私の大好きな『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』が映画館でリバイバル上映されているというので観に行った。
しかも私が大好きな映画が自分のバイト先だったイオンシネマ(ワーナー)多摩センターでやっていたというのも嬉しい話だ。
ここには自分の眼差しがあった。未熟だけどスクリーンに熱視線を注ぐことで新たな知見を身につけたいという意欲と、映像を映画をやっていきたいという意志を研ぎ澄ませていた。

入場特典のチラシが嬉しい

映画は時間藝術だ。時間をどうデザインさせるか?どう切り取るか?という点においてこのジャンルに魅了され続けている。
どうして『ビフォア』3部作が好きなのかと考えた時に、この経過する時間へのアプローチがとても好きだからだというのが一つある。
二人が電車内で出会って夜が明けて、別れる日までの半日を描いた『ビフォア・サンライズ』からの続編はその間ほぼリアルタイムで歳を重ねた本人たちが再会するというものである。

自分の話で恐縮だが、12年以上、プロレスの煽りVTRと呼ばれる類の映像を作ってきた。そしてそのVTRでは時間経過を表現出来る選手は強い。強度があるなと感じる。つまり時間軸の幅を表現出来る選手、キャリアを重ねた選手のことだ。
もちろんそれは過去の試合の映像アーカイブなどがあって初めて表現出来ることでもあるが。「10年前、彼はこんな若手で、今はこうして王者になっている」という変化だけでも、映像は顕著にその肉体と精神の変化を雄弁に語ってくれる。だから映像の中で時間の揺り戻しがあればあるほど、私の中では手応えが掴まれる。手応えってなんだろう?と考えるとこの時間藝術ならではのアプローチが出来ること、その時間によって生まれる老いや変化から味が生まれてくる。若者はまだこの重ねた時間に価値を見出せず、若さに価値を預けていくが、同時に歳を重ねた人間にもそれに対抗出来うる価値が発生している。そうした価値観と価値観を対立させ、時には重ね合わせてVTRをよく作っていた。映画的な言語体系だな、文法だなと自分で感じられることが楽しかったし、やりがいがあった。

話を元に戻そう。
『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』のリバイバル上映はそうした時間変化による続編があると脳内に焼き付けた状態で見ているとかなりたまらないものになっている。これまた映画内は一回性の強い瞬間の切り取りが巧みに構成されている。
イーサン・ホークとジュリー・デルピーはほぼ何らかの会話と独特の間だけで90分近い映画を成立させている。何が起こるでも、何かが劇的に変化するでもない。有限な時間というものを感じさせるゆったりとした間に、互いの人生観を話し合いながら距離を少しずつ詰めていく。

男女が惹かれ合う、そんな瞬間の切り取りがこの映画にはあるように思う。移動する電車内という猛スピードの横移動をする乗り物に乗りながら、イーサン・ホークとジュリー・デルピーだけが時が止まっているかのよう。映画はそんな演出は見せないけども、そう感じられるだけの余白と芝居を見せる。
ものすごく性的にフェロモンが出ているわけでないけど、二人の文学的な印象もあってかそれがとても性的な魅力の一つにもなっている。ただの一目惚れ以上に、話していて「この人なんかイイ」という微細な視線の介在が魅力を相乗させていく。そういう表には出さない、腹の中にしまったままの感情のようなものをこの二人は見事に表現されていると思います。

「俺はお前とキスがしたいんだ」ということを直接自分からは言わないでなんだかモジモジしている感じを芝居するのこの世で一番イーサン・ホークが上手いんじゃないかと思う。それもまた若い二人の、限られた時間によって捉えることが出来た印象的なシーケンスではないだろうか。

この二人、会話と間だけで映画的な時間を成立させている。
二人でレコードを聴いている映像は神がかっている。ただ音楽を二人で聴いている。そんな何気ない時間をフレームに収まった二人を映す一つのショットの中で表現をしている。音楽を聴く、それを共感覚する。それについての感想を言い合うだけでもなく、ただ音楽を聴くだけで、二人の表情の機微だけでその確かなる感情のゆらめきが伝わってくる。ああ、映画館だとそれがまたよく伝わるのよな。

占い師と遭遇するだけでも、その人生観一つの違いが顕著になる。
何か事が起きた時に出る違いは漣にように揺れ動いて伝わってきますな。

電車で始まり、電車の出発と共にこの映画は終わる。
「素敵な人生を過ごしてね」というジュリー・デルピーの別れ際の言葉に落涙した。
良い人生を送る、それを願う。今、この一瞬があるからこそ、あったからこそ人生がいいものになることを願う。
だからこそこの一点で終わらせたくないとの本心が溢れ、もう一度会おうと二人は話す。それを切り出す男の勇気と、その言葉を待ち侘びる女の想いが合いそうで合わなかった波長を一つに繋げた瞬間だ。
人生はそんな何気ない出来事の積み重ねだのように日々生きていて思う。

電車は出発し、映画は人気の少ない街を映し出す。
二人のエネルギーを街は吸収する。そんな出来事はこの街からすれば数多ある出来事の一つであるように、そんな出来事では世界は変わらないと言うように、日常の街の景色の一つであると言わんばかりに。街のショットの連鎖が雄弁に静かに語ってくる。その対比がまた美しいのだ。

38歳になってこんなに沁み入る映画鑑賞になるとは。
これを味わいたくて、この時間を創りたいと日々思いながら私も生きている。

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