亡くなった人のフォローを外す
夕日を眺めながら、Twitterのフォローを外している。
10年以上Twitterをやっていると、時々、ふっと消えてしまう人がいる。「あの人はどうしているかな」と思った時に、すでにその人は亡くなっている。
死んだ以上、そのアカウントをフォローしておく意味はない。もう更新されないからだ。
フォローを外す前に、生前のつぶやきを一通り見る。そこには日常がある。生活の営みがある。ちょっとした悩みや些細ないらだち、愛や嫉妬や欲望がある。陽の光が当たる、普通の日々がある。
でも、同じ陽の光の下に、その人はもういない。残るのは、くだらないつぶやきだけだ。ノーベル文学賞は取れそうにもない。でも、確かに、それはその人が僕に残した唯一のものだ。「言葉」は、いや、「言葉」だけが、たしかにこの世界に残り続ける。
時々、20歳のころの自分が書いたものを読む。若いな、と思う。気恥ずかしくなることもある。自分が書いたように思えないこともある。
当然だ。20歳の頃の僕は、もう、世界中のどこにもいない。この文章もきっと、何年かあとの自分が読み、同じように思うのだろう。
サリンジャーが「ライ麦畑でつかまえて」を書いたとき、彼は31歳だった。
彼は91歳で亡くなった。31歳の彼はもうどこにもいないし、91歳の彼も、どこにもいない。それでも、「ライ麦」は残り続ける。
だから、書くことは生きることだと思う。
僕には「ライ麦」は書けそうにもない。10年ほど書いてきても「納得のいく」文章というのは、ほとんど書けていない。鳥が羽ばたくように、風がきれいに吹いて、気持ちよくそれに羽を乗せられたときだけだ。
それでも、とにかく、書いたものは残る。それだけしか、残らない。
考えてみれば、誰かの生きた証がTwitterのタイムラインだなんて、なんだか寂しい話だ。でも、やっぱり、書いたものしか残らないのだ。
もし明日、僕の大事な人がふっと死んだらきっと、LINEやメールや、メッセンジャーや、とにかくありとあらゆるものの履歴を印刷して大事にどこかにしまって読むだろう。
だから、書こうと思う。
「この」自分がいつか消えたときに。あるいは本当に自分が消えてしまったときのために。自分の残滓がどこかに残るように。
風が吹く。私もあなたもそこにはいない。我々が存在した痕跡は世界中のどこにもない。それでもきっと日は昇り、また沈む。そのどこかに、僕の残滓が残っている。
励みになります!これからも頑張ります。