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並行書簡-45

賢さんからの並行書簡がきた。「早くかけボケ!」みたいな終わり方で笑った。賢さんの並行書簡は笑いどころが必ずあって好きだ。今回は鏡の件が笑いポイント、だと思ったら最後に「ボケ!」と来たもんだ。シンプルでストレートな落ち。素晴らしい。

賢さんの並行書簡を読んでいるぼくの反応を見たパートナーが、何かを察して笑って言った。「ゆうさんといる人はみんなそんな感じになるよね」。自分といる人は、自分と一緒にいるのに、一緒にいないと感じるらしい。こっちを向いてと言えばちゃんと向くが、ちゃんと見てくれてないように感じて、満足しないという。彼女によれば、それはぼくの周りにいる人が、過去や未来に気が向いていることを思い知らされるからだ、とのことらしい。

その気持ちはよく分かる。しかし、よく分かる、と言うと「お前は分かってない」と言われることが多いので、分かってないのかもしれないが、それでもよく分かる。期待の話だ。期待の話だよね? 期待の話ってことにして、先に進める。

期待は過去から生まれる。「前はこうだったから」という記憶が、「次も(は)こうなる」という未来を感じさせる。それは些細な言葉遣いに表れる。ぼくはそれに敏感なところがある。

例えばパートナーがクーラーの効いた部屋にいた時に「これから冷えるだろうね」と言った。これは文脈とニュアンスから「これから(の季節はクーラーが入るから室内は)冷えるだろうね」という意味だと分かった。それを聞いてぼくは「彼女はいま寒いんだな」と「それを過去に見て、未来に感じているんだな」と思った。それで、特に答えることもなく、ぼ〜っと彼女を見ていると、彼女は気まずそうにして、「いまちょっと寒いから」と弁解めいた発言をしたタイミングで、ぼくはようやく「ちょっと寒いね」と返事をした。

いま起きていることを過去に見ると、未来が感じられる。必ずこの順序だ。未来だと思っているのは、必ず過去から作られているし、過去はいま起きていることに紐付いている。いまだけが生きていて、過去はもう死んでいる。死んでいる過去から作られる未来は、もっと死んでいる。いや、死んだものでさえない。未来は死んだものでさえない、何かだ。

未来は何かをする原動力になるのを、ぼくは分かっている。石油も生き物の死体から生まれたもので、エンジンを動かす動力になる。パワフルだしお世話になっている。しかし、石油は使えばなくなる。ガソリンスタンドでの補給が必要になる。補給が必要なものに頼る限り、常に不安がある。高速道路でメーターランプを点けながら運転するのは、生きた心地がしない。「車を運転するには、ガソリンが必要だ」と言うのと同じニュアンスで、「人が生きるには、未来が必要だ」と人は言う。どう考えても、いらんだろ。いま、生きているから、過去に思いを馳せ、未来を感じられるわけだから、順序が逆じゃあないか。そうだろう? そうだと言ってくれ。

約束や計画は、当初感じられた通りに決して果たされることはない。完全に予定通りに果たされた未来など人類史上ひとつとしてない。未来は過去だからだ。過去はもう二度と訪れない。過去が未来だった試しは一度もないし、未来が過去だった試しも一度としてない。

それでも、ぼくは約束をする。計画を立てる。それはもはや祈りだ。叶うことがないと知りながら、来る保証もない未来を願う。人はやがて訪れる未来といういまが、どのようなものであるかについて、完全に無力だ。どのようないまが訪れるかについて、ぼくにできることは何もない。その無力感が、ぼくを祈りに向かわせる。その無力感がやってくる、まさにその時に、このいまが、いつかの約束で、ぼくだけの計画だったと気づく。そのとき、約束は果たされ、計画は完成したことを知る。

今日もぼくは山ほど他人との約束を破り、それ以上にぼくだけの約束を叶えてきた。ぼくがぼくだけの約束を祈りの内に叶えること。これがぼくのできる精一杯だ。許してください。ぼくのことではなくて、みなさんのことを。みなさんがみなさんだけの約束を叶えることを、どうか許してください。そこではぼくも許されます。そこでは誰もが許されるしかないからです。

だから、ぼくが賢さんに「ボケ!」と言われたのも、ぼくの、ぼくだけの計画で、その通りになりました。

「まんまとかかりやがったな!ざまーみろ!」

むりすんなよ