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「へなちょこな私」

私の「へなちょこ」ぶりを公開します。

私のエピソード

エピソード1:
社会人経験が少ない私は、10年程前に日本に帰国してきて、近所の厨房補助のバイトに、特に書けることもないスカスカの履歴書を持っていって面接に行くというだけで、前日、不安で大泣きしていた。10年程前というと、30代前半、年齢だけは立派な大人である。

エピソード2:
1年半前、生まれて初めて日本語学校なる所に足を踏み入れ、模擬面接をしに行くという日の前日も、吐き気と頭痛に苛まれ、生きる自信をなくし、世界からこのまま逃げ消えてしまいたいと思って、とにかく、その時間が過ぎるのを耐えた。面接に受かるか落ちるかは、二の次であった。

エピソード3:
そして、なぜか今週も、私は不安と恐怖に苛まれて、頭痛と吐き気に見舞われている・・。
たぶん、理由は、日本語学校と地域で、いくつかの新しい事にチャレンジしているので、(きっと人が聞いたら、その内容は些細なことなんだと思うが)未知の状況におびえているからだ。

私は一見、他の人はしないような大胆なことをしているように見えることがあるみたいなのだが、私の本質はそうではない。

私には極端にできないことがあったりするからなのかは分からないが、「未知の状況」が恐ろしい。「普通の人」にはなんてことないことが、私には全く対応不可なんじゃないかとおびえている。人の反応が怖いのだ。そして、こういうところに文章を書いて、公開することは平気だったりするアンバランスを抱えている。

そんな私だが、今日も、現実逃避したくてたまらない気持ちでいた。
仕事も少しずつ片付ければいいだけのことなのに、注意力散漫になり、手がつかなくなる。
そして、夜になって、嘆き始めるのが、いつものパターンだ。

なんで私ってこんなんなんだろうと思う。

自分の「へなちょこ」と戦っている人たち


そんな時、とある方からLINEがあって、「手作りの料理」の差し入れがあった。
その人は、時々、突然、連絡をくれて差し入れをしてくれるんだけど、いろいろあって、職を転々とされてて、今日も差し入れくれながら、

「前の仕事は辞めたんだ。でも、今日、新しいところに面接に行ってきて、採用されたから。今度の職場は、○○なところだ。」って教えてくれた。

私、もらうだけで何もしてないのに、その人は、時々、料理嫌いの私に食べ物を恵んでくれる。

あと、私の職場の日本語学校で、進級が難しい子がいて、でも、彼女はどうしてもみんなと一緒に進級したいと思ってるから、自ら学校にお願いしに来て、進級するための課題を救済措置として出してもらい、今、何とかそれをしようと頑張っている。

でも、散々、約束の時間に遅刻したり、課題提出の期限に間に合わなかったりして、もらったチャンスを何度も何度も逃して、今日がラストチャンスだったのにも関わらず、今日も間に合わないから、あともう少し、ラストチャンスを伸ばしてほしいと連絡があったそうだ。

「普通」の基準で考えたら、遅刻しないようにちょっと早く家を出ることや、彼女の課題はそんなに難しいことじゃないように感じてしまうかもしれないが、でも、みんな目の前にチャレンジしないといけない、自分の背丈より高いチャレンジがあって、それに挑んでいるんだよな、って思ったら、私もがんばらなきゃなと力が出てきた。
はしごをかけてくれる誰かがいたら、きっと彼女はそのチャレンジを登れるようになって、少しずつもっと大きなチャレンジに挑んでいけるようになるんだと思う。

「知っている」という関係を築くのは「ことばの力」


私にとって、弱音を吐きたいとき、一番、安心して話せる相手は私の夫だ。

20年連れ添ってきた夫とは、今まで散々喧嘩してきたが、夫は私の事をよく知っているから、別に何を言ってもビックリされないし、今更、失望されることもないし、私も夫の事を知っているから、夫の言葉が社交辞令じゃないことが分かる。
夫の返信は、いつもそんなに長くないけれど、私を安心させてくれる。

それは、「私を知ってくれている」というのと、本心から語っているというのが分かるのが大きいんだと思う。

「知ってくれている」「私もあなたを知っている」という関係

私は、私にとっての第二言語(外国語)で夫と対話をして、関係を築いている。

第二言語(外国語)で関係を築くのは、もどかしいことがたくさんある。
「ことば」は文化だから、形式的な言葉には表れてこない文化(スキーマ)が分からない中では、多くの意図の読み違いや、不信感が生まれる。
それらを解決していくのも「ことばの力」だ。
私は2人の間で育んできた、この「ことばの力」に支えられている。

だから、私が「日本語教育」で目指しているのは、そういう「ことばによる対話」を可能にする「言語活動」なんだと思う。

「ことばの活動」に従事する仕事

私は勉強が苦手だから、「教師」と名の付く「日本語教師」は向いていないんじゃないかと、授業準備のたびに自信をなくすことが多い。基本的に勉強は得意ではない私は、どんな情報提示のされ方が分かりやすいのか、よく分からないので知識伝達に失敗していると感じることが多い。

でも、いつもお世話になっている日本語教師の先輩が、

「私は、そもそも言葉の習得って、語彙たら文法たらをベンキョーすることだとは全く思ってなくて、(略)

授業を構成するのは【人】です。まず学習者であり、【人】としての教師です。

アフォーダンスを生み出すのは教師です。
目の前に日本語をしゃべれる生身の存在が、学習者の言語行動を呼び起こすのです。

この教師に、私が思っていることを言って理解してほしい、この人のことを知りたい、って学習者が思ったら、それは教師が一つのアフォーダンスになっている、ということですよね。

そこからさらに進んで、教師は大枠を示したり、アドバイスだけをして、回して行くのは学習者、っていうのが理想ですよね。」

って、仰ってくださって、私は、これを目指しているんだと励まされた。
(ちなみに、この先輩は私が知っている誰よりも文法に詳しく、常に研究を欠かさず、勉強会もリードしておられる。)

そして、先輩の話を聞いて、この本を思い出した。
細川英雄さんの文章に惹かれて、タイトルで選んで買った本。
『対話をデザインする_伝わるとはどういうことか』

私は話し始めると、場の空気に注意を払えなくなってしまうところがあるし、コミュニケーションスキルに欠けていると思っていて、対話には自信がないのだけど、この本はそういうことではなく、コミュニケーションについてもっと本質的なことを語っている。「私が目指しているのは、これなんだ」と、ことばが染み込んでくるようだった。

対話の活動によって、人は社会の中で、他者とともに生きることを学ぶのです。このように、対話は、個人と個人が何かの話題について話し合うことだけではなく、それぞれの個人がことばを使って自由に活動できる社会の形成へという可能性にもつながっていきます。なぜなら、ことばを使って自分の考えていることを他者に伝えるという行為は、自分自身の個人的な私的領域から他者という未知の存在へ働きかける公的領域への行為だからです。

「なぜ、この私が」というところに注目し、それを自分のことばで考えてみる、ここにあなた自身の対話活動のオリジナリティがあります。

「自分」とは「私」の中にはじめから明確に存在するものではなく、すでに述べたように、相手とのやりとり、つまり他者とのインターアクションのプロセスの中で次第に少しずつ姿を現すものです。

この世で生きていくということは、自分のしたいこと、やりたいことをどのようにテーマ化し、それについて他者とともに実現していけるか、ここに考える個人の使命があるといえるでしょう。対話の活動とは、そうした個人の使命を、ことばによって引き受け、他者とのことばの活動の場を形成する営みだということなのです。

細川英雄. 対話をデザインする ──伝わるとはどういうことか (ちくま新書)

凸凹の多い「私」。
自信満々になったり、極度に落ち込んだり、安定しない「私」。

「私」は「私」以外の誰にもなれないけれど、
「私」という人間は、誰かといっしょに「ことばの活動」をするための媒介になれるんだな、と。

「誰かのことば」が、私とのやりとりの中で生まれるのだったら、
私の本質が「へなちょこ」であるかどうかは別に問題ではないんだろう。


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