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今さら『ドライブ・マイ・カー』

お正月の二日目、いかがお過ごしでしょうか?

私は元旦の昨日は、午前中に自分の教会で元旦礼拝。お昼過ぎに帰宅しましたが、娘の教会は元旦に限り夕方スタートということでまだ家にいたので、それなら、一度その教会に行ってみたいと思っていたので、思い立ったが吉日、と一緒に出掛けて、一日で二つの礼拝に参加しました。でも今日はその話しではありません。

お正月休みは3日までなので、貴重です。

確定申告の準備などもしなければなりませんが、さすがに正月の二日にそれはしたくないなあと思い、何をしようかなあ、そうだ、久しぶりにAmazonPrimeで映画でも観るか!とリストを検索したら、あの超話題になった「ドライブ・マイ・カー」が、見放題に入ってました! ずっと気にはなっていたので、ラッキー! しかも上映時間が3時間弱と長いので、こういう時でないとなかなか観る気にもならないなあと、即決。

アカデミー国際長編映画賞、 日本アカデミー賞 最優秀作品賞受賞ということで、とっても話題になりましたよね。特に海外でも評価が高かったということで、どんな内容なのかとても気になっていました(そのわりに、観るのは遅い…)。

評価が高かったのは承知していますが、どういう点が評価されていたのか、評はほとんど見ないまま、鑑賞スタート。

映像の美しさでいうと、主人公のマイ・カーは、朱色がかった赤いクラシックなスタイルの車で、お洒落で素敵ですよね? それをとても大切に手入れして大事に乗っているという設定が、主人公の性格の一部を現わしていたようでした。優しくて繊細で物も人も大事にするけれど、反面、安全志向でこれと決めたものに固執する、変化を好まない…みたいな?(私の勝手な推測です)。

その赤い車を走らせる広島の街の夜景や、主人公が宿泊する海辺の宿のお部屋のしつらい(思い切り”和”のテイストで、日本人の目にはシンプルで質素すぎる感じもしますが、それがかえって外国人に受けそう)、その窓から見える海の景色、それから一足飛びに飛んで(映画の中ではドライブとフェリーでの1日がかりの移動ですが)北海道の真っ白な雪に埋もれた村の景色も美しい。おそらく、普通にそれだけ見たらなんてことない景色なのかもしれませんが、主人公の痛んだ哀しい心、その感情を抑えているのににじみ出てしまう苦い表情と併せて映るので、よけいに綺麗に見えるのかもしれません。

それはつまり、視覚に映る映像に心の目を重ねて見ているということ? 私が目で見ていると思っている映像も実際は脳に信号が送られて処理されているらしいので、そうすると心の受け取る信号も目で見る映像に、当然、影響しそうな気がしないでもありません…。

ストーリーについては、悲しみを抱えたまま生きている人が、別の、自分と相当かそれ以上くらいの悲しみを抱えた人に出会い、解決はしないけれど、そのもう一人の辛さや悲しみに共感することで、自分の押さえていた感情も一旦吐き出し、少し前に向けるようになる…、と書いてしまうとあまりに単純すぎますね。

劇中劇の 『ワーニャおじさん』の台詞が、登場人物の心の中の台詞と重なり、その劇中劇の台詞で主人公の心のうちを語らせたりもするのですが、映画の中の最後の台詞は劇中劇の台詞、希望を持たせるようでいて、単なる人間の期待でしかないのになあ、と思えてしまいました…。

クリスチャンであっても、この映画の主人公たちのような悲しい目に会うことはあります。

それでも、自分の人生は何のためにあるのか、自分も他の人をも造られた創造主がいらして、その方の教えられる人としての生き方に従って歩むこと、そこに目的を置いて生き、また日々、その創造主の神様=イエス・キリストに祈り、より頼み、助けられて生きるのは、自分一人で耐えて頑張る日々とは、文字通り天と地の違いです。

妻を突然亡くした理由は帰宅が遅くなった自分にあると信じている演出家と、土砂崩れの家から母を助けなかったために死なせてしまったと自分を責め続けている若い女性が、イエス様に出会えたなら、どんな慰めを受けることができるだろうと想像してしまいます。

現実は小説より奇なり、という言葉もありますが、現実にはこの映画の悲劇よりもさらに辛い重い悲しみや辛さを抱えて生きている人がたくさんいます。美しい感動的な映像にならなくても、イエス様に出会い、助けを求めて、癒しと慰めを、そして究極には永遠の命をいただいて欲しいと願うばかりです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネの福音書3章16節



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