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動静脈奇形が急に進行した要因を振り返る(あくまで私の場合)

そして、この記事を書いている2024年2月。
ようやく出血のリスクや激しい痛みに支配されることなく、穏やかに毎日を過ごせるようになりました。
先生たちに血管内治療を繰り返しやってもらったり、慎重に経過を診てもらったおかげで、右手の親指の皮膚は健康的な色になり、少し細くもなりました。
一方、親指に流れすぎていた血流が良い塩梅でストップした分、今度は右手の母指丘・小指丘・手背に浮腫みを感じるようになりました。つくづく、一筋縄ではいかない病気だなぁと実感してます。
今後もどんな症状が現れるかわかりません。でも今は、こうして当たり前の日常を送れるようになったことへの感謝を噛みしめています。

10月の緊急入院の頃から、なぜこんな事態に陥ったのかをずっと考え続けていました。
結論から言うと、自分自身が肝心なことから逃げていたのが最大の要因だったと、今になって思います。

私は2009年に会社員を辞めて独立し、個人事業主になりました。
その理由はいろいろありますが、当時の私は「稼ぎたい!」という強い思いがあり、企業向けの研修講師として活動し始めました。
2011年に結婚し、嫁いだ家も実家も金銭的に支えねばならん!と、ますます稼ぎたい欲が高まりました。
やがて身体がダメージをくらったのか、子宮筋腫と子宮腺筋症、卵巣腫瘍を患うことになりました。
あらゆる薬を飲んで激痛を無理矢理抑え、子宮と卵巣の温存に励みました。でも、薬の副作用にも悩むこととなり、結局2015年の夏に子宮と右の卵巣を摘出しました。

子宮のすべてと右の卵巣を摘出後、急激に訪れた更年期障害に悩みながらも、以前にも増して仕事に奔走しました。
2015年頃から縁あって、ある会社の役員になりました。会社の事業の柱にすべく、中小企業の人材育成のコンサルタント業をやるようになりました。
ところが、それまでの自分の経験が全く通用せず、ブラッシュアップのヒントもつかめず、無知で非力な自分を突きつけられ、苦しみもがきながら客先に通っていました。
それでも諦めずにやり続け、2019年からその会社の代表に就任しましたが、その翌年、コロナ禍に突入。
売上は激減しましたが、新たな時代に突入したことを感じ、映像機器を調達しまくってライブ配信をしてみたり、手弁当でオンラインプログラムの実証実験をしてみたり、いろんな人から知恵をもらいながら商品開発にチャレンジしました。
2023年になってようやく、自分が進んできた道に一筋の光が見えてきたように感じ、周りがドン引きするような商品開発にも精を出しました。

それらはすべて、苦しくも充実した日々でした。

しかし振り返ってみると、女性ならではの臓器が自分の身体から摘出された頃から、本当は言い表せない喪失感に苛まれていたのに、そんな自分と向き合うのが嫌で、知らず知らずのうちに爆走し続けていたのだと思います。

過去10年もの間、動静脈奇形の目立った症状が現れなかったのは、もしかしたら妊娠出産といった、この病気の悪化を引き起こすイベントをたまたま経験しなかったからかもしれません。
でも、実は私の右手の血管たちは、爆走する私がストレスにさらされるたびに黄色信号を点灯していたかもしれません。
なのに、「私は昔からずっとこの病気と共にしているから大丈夫」「そんなことより私にはやるべき仕事がある」という、とんだ勘違いや驕り昂ぶりが積み重なり、2023年の後半に身体が赤信号を発してくれたんだなと、今あらためて反芻しています。

私は人材育成を業とする会社を営んでいます。
顧客には「自分を知る」ことの大切さを訴え続けているのですが、「自分を知る」を最もサボっていたのは、私自身だったかもしれません。
また、顧客には「結局のところ問題の原因は自分の中にあるよね」という話もするのですが、その意味や醍醐味を、このたび自分の病気を通じて学ばせてもらったように感じます。

2023年は公私とも多くの方々に心配・迷惑をかけ、今でも申し訳なく思っています。
でも、おかげで生誕50周年の記念すべき年に、自分がちょっとだけ進化したような気もしています。

かつては見向きもしなかったnoteという道具を使って、病気を通じて味わった楽しいことや楽しくないことを書き表してみようという気持ちが芽生え、ここまでは過去の経緯を綴ってまいりました。
今後も私の動静脈奇形の経過は、できるだけリアルタイムで書き残していくつもりです。
また、役に立つかはわかりませんが、動静脈奇形の患者さん向け情報も記していこうと思います。

よろしければ、どうぞ引き続きお付き合いくださいませ🎵

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