抜け出た先のまた見果てぬ夢

 夢を見ていたのだとしても、いやあれは現実だったのだと、身体が抗うように、街を歩き、トンネルを抜けて、駅のベンチに座り込んだことをしかと覚えている。
 そのように夢見心地をいつまでも引きずるような感覚に陥らせるものもあれば、見ている間は忘れがたい体験のように感じられたのに、目覚めて数刻が経つうちにするりと頭から抜けていく夢もある。いずれにせよ夢について考えるとき、望郷の念-それも異空間への-に駆られ、心は身体を離れて浮遊するのだから、どうやら夢は現実からの脱出装置として機能しているらしい。
 こうありたい、という志もまた夢と呼ばれる。先日観た映画『14歳の栞』で見知らぬ大人に、サッカーのプロ選手になりたいと素直に語った14歳の少年は「でも、ダメかなって思う瞬間も、あります」と言葉を締めくくり、それまで伏せていた目をちらりと上げ、インタビュアーの表情を窺った。己にとって何か重要なことを語ったとき、相手の方をちらりと見上げるその目の動きを、自分もまたするので、少年に、というよりかは、その心情に自身を重ねて寂しい気持ちになった。自分は他人に夢を語ってこなかったが。彼は心の奥底では、きっともう「ダメ」であることを知っている。しかし「ダメかな」という言い方をするのは、藁にすがるようにかすかな希望に己の未来を託しているからだ。これは自分が14歳だった当時にも気付けていなかったことではあるが、実は「可能性がある“かもしれない”」と考えることはこの世における最も強い呪縛である。それを推進力に変える者もいるが、多くにとっては最も重たい足枷なのである。もしかしたらプロになれるかもしれない。もしかしたら受かるかもしれない。もしかしたら現状から抜け出せるかもしれない。もしかしたら幸せになれるかもしれない。期待し続けることは苦しい。
 そう誤読されても仕方がないが、自分は14歳の夢を「どうせダメだ」と嘲笑ったわけではない。夢想家ではあるが、常に地に足をつけてきた者として、ちらりと見上げまた伏せる目の動きを中学生ながら習得した、習得してしまったあの少年の今後の心労を憂いつつ、馳せられるかぎりのエールを彼に捧げたい。

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