無理してでも振り返ろうか 〈後〉
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今年は24本しか映画を観なかった。体感として観る本数が減っていたのは分かっていたけれど、こうして数字でその事実を目の当たりにすると少し悲しくなる。でも意識的に映画鑑賞を減らした年ではあった。意味があるものを吸収するのに疲れ始めていた。意味を理解したとて、それは一人の喜びだから。アウトプットしたところで誰にも伝わらないから。
24本の中で良かったのは『街の上で』『14歳の栞』『コロンバス』『ドライブ・マイ・カー』『RRR』の5作品。
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『街の上で』と『14歳の栞』についてはすでに文章を書いた。
『街の上で』
『14歳の栞』
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『コロンバス』は男女(ケイシーとジン)が話しながらモダニズム建築を見て回る静謐な空気がすごくよかった。終盤に向かうにつれてお互いへの信頼関係が築かれていくのに、易く恋愛感情に陥らないのが見事。モダニズム建築の街・コロンバス、いつか行ってみたい。
映画を観たのは今年のかなり早い時期だったと思うけど、ケイシーがコロンバスで2番目に好きな建築をジンに紹介したときの会話を今でも覚えている。ガラス張りの銀行を前に「アメリカ初のモダニズム建築の銀行」「この建物は床が道路と同じ高さだから」などと説明するケイシーをジンが手ぶりで止める。
あるものを好きになるということは理屈じゃない。直感だ。事実の列挙で語り尽くせるものではない。好きなものを理路整然と簡単に説明できるなら、その好意を疑った方がいい。俺はYouTuberのように良さをプレゼンしてくる人間より、興奮気味に「なんか分かんないけど最高でした」とだけ言う人間に惹かれてきたし、実際そういう人間の方が信頼に値する。
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日本映画として初めてアカデミー賞作品賞にノミネートされたことで話題になった『ドライブ・マイ・カー』は気になっていたけれど混んだ映画館が嫌で観れていなかった。が、Amazon Primeで観られると知って、あれはたしか平日の深夜に観た。去年観た『ポルト』も部屋の静けさとともに記憶しているし、明け方に近い時間帯に観る映画は最高なのかもしれない。個人的には西島秀俊よりも岡田将生がよかった。もともと岡田将生は『悪人』での演技で好きな俳優のひとりだったのだけど(正直『悪人』しか出演作を観ていないが)、『ドライブ・マイ・カー』で見せた長い独白、ともすればこぼれてしまいそうな涙を目に溜めたまま切実な思いをこちらに訴えかけるように話すあのシーンは本当に最高だった。もっともっと商業的じゃない作品に出てほしい。(周囲で評判が良かった『大豆田とわ子と三人の元夫』は全然好きじゃなかった)
『ドライブ・マイ・カー』が良すぎて原作『女のいない男たち』も手に取ってみたが、短編集だった原作をひとつの映画にまとめあげた濱口竜介監督の手腕が素晴らしかったのだと気付く。
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『RRR』はあまりに最高すぎて観ている途中で「いま自分は人生で初めて“映画”というものを観ているかもしれない」と思った。歌、ダンス、友情、恋、戦闘、裏切り、和解、悲劇、リベンジ……アトラクション的興奮を映画に求めるのなら、『RRR』にはそのすべてがあった。スローモーションの多用だったり、徹底してシーンをカッコよく見せようとしていて(実際めちゃくちゃカッコいい)、たとえばダンス・シーンが有名だけれど、そのシーンにいたるまでの前フリを本当に10分くらいかけて雰囲気を高めているので笑ってしまった。カッコよすぎてケラケラ笑える感じ。もちろん文化的違いもあっておかしみもあるのだけど、最終的にはすべてがカッコいい。シーンをカッコよくすることに照れがない。終盤の戦闘シーンで、炎を背にした影法師の神々しさにはカッコよすぎて泣きそうになってしまった。
インド映画といえばやっぱりエンディングのダンスだけど、陽気に踊りながらも自分たちの国への誇りみたいなものを感じてすごくよかった。人生で一番好きな映画はなにかと聞かれたら洒落た作品を挙げてしまいたくなるのだけど、『RRR』だと堂々と言いたい。
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観た映画の本数が少なかったのはNetflixで『Seinfeld』と『Breaking Bad』シリーズ漬けだったこともあるかもしれない。思えば、今年はこの2作品を観ている期間が楽しかったかな。
『Seinfeld』についてはすでに文章を書いた。(しかも二つも書いてた)
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『Breaking Bad』は凄まじいほどに面白く、そのスピンオフである『Better Call Saul』を見終えてからの日々は半ば放心状態だった。思えば観ている間はずっと緊張に縛られていたので、あの虚脱感は当たり前なのかもしれない。エンタメ的な面白さだけでいえば、自分はこれ以上に面白い作品を観ることはこの人生においてもうない、そう確信を持って言い切ることができる。過剰な表現かもしれないが、まるで生涯における一番いい時期が過ぎたような余韻があり、『Breaking Bad』シリーズを観終えたこのあとの人生はもはや余生だと思った。
『Breaking Bad』は肺癌を告知された高校の化学教師・ウォルターが命尽きる前に家族に多額の財産を残そうと元教え子の売人・ジェシーと組んでメタンフェタミンの製造を始める、という物語で、2008年にアメリカで放送が開始された(『Better Call Saul』はウォルターの資金洗浄を手伝っていた弁護士・ジミーを主役に置いたスピンオフ作品)。それで、このテレビドラマ・シリーズの何が良かったかというと、それぞれのキャラクターの行動が社会への怒り、人生における悲しさや虚しさに支えられていたことだ。本当に全員の目が反骨の火で燃えていた。
『Better Call Saul』の下記のジミーの発言はまさにドラマ・シリーズを象徴するようなセリフだった。奨学金の面接に来た女の子は今は優秀だけれど過去に万引きした経験があり、そうとは言われないがおそらくはそのことが原因で落とされてしまう。とぼとぼと帰る彼女を追いかけ、追いついたジミーは堰を切ったように一方的に激励する。なぜならジミーも過去を理由に差別されてきた側だったからだ。
2時間の映画も休み休みでなければ完走できなくなっていたので、1話が1時間もある作品、しかも計11シーズンあるこのシリーズを観るかどうかは躊躇した。が、観始めてみれば続きが気になってたまらなく、終わりに向かう名残惜しさを抑えて何日も何日も『Breaking Bad』シリーズを観ること以外なにもしなかった。
どのキャラクターも魅力的だったのだけど、『Breaking Bad』ではジェシー・ピンクマン、『Better Call Saul』ではナチョに惹かれた。ジェシー・ピンクマンはチンピラでありながら弱いところがよかった。物語が進むにつれて周囲の人物がマフィアや麻薬界の大物になり、主人公・ウォルターも悪に染まっていく中で、ジェシー・ピンクマンは徹底した悪になれない、でも根本的に良い人間でもない、だからただ泣くしかない、というその板挟みの立ち位置にグッときた。しかし抑えていた怒りが爆発したシーズン3の7話"One Minute"は『Breaking Bad』屈指の最高回になった。
『Better Call Saul』のナチョは知性的で、慌てふためることなく淡々とクールでかっこよかった。そのナチョが唯一感情をあらわにした下記セリフはカタルシス以外のなにものでもなかった。カタルシスといえば『タクシードライバー』だけど、ドラマは1話1時間で何シーズンもかけて感情が蓄積されるのでとてつもない威力になる。映画は続編が出れば出るほど駄作になるので、(ドラマをあまり観たことがないので)ドラマもシーズンが多ければ多いほどつまらない作品なのだろうと勘違いしていたが、優れた製作陣であればこれほど有効に感情を積み重ねて物語を展開していけることを初めて知った。
どちらも相棒としてのポジションを務めたこの二人はやはり重ねやすいらしく、こんなレビューを見つけた。「どちらも『ひどい人生の選択』をし、『そのために過剰な罰を受けた』」というところがいい。
あと記録しておくとすれば、シーズン3の10話"Fly"について。海外のテレビドラマには「Bottle Episode」というものがある。これは予算を抑えるために最少のセット・出演者で撮影されたエピソードを指すのだが、『Seinfeld』の"The Chinese Restaurant"のような傑作が生まれたことで、手を抜くのではなく、限られた条件でいかに突出した「Bottle Episode」を作れるかが製作陣の腕の見せ所になっている(と勝手に自分は解釈している)。『Breaking Bad』の"Fly"はメス製造所にまぎれこんだ蝿を追いかけながらウォルターとジェシーが家族について語り合うBottle Episodeだったのだが、正直全然好きじゃなかった(世間的には評判はいいらしいが、自分は『Breaking Bad』のワースト・エピソードだと思っている)。が、下記のセリフにグッときた。
「ある単語を、ある特定の順番で並べれば、このすべてが説明できるに違いない。」
自分もそう信じて、探してきたのだった。
そしてそれは頭の中に迷い込む苦しいひとり作業だった。
この前、「分かってもらえないようなことを分かってもらえないと嘆いているのは子供だ」と同年齢の友人から言われた。その通り俺は子供で、分かってもらえないようなことを分かってもらえるように説明できる文章はこの世に存在していないのかもしれない。そうだとしても、そう言われて割り切れるなら最初から説明なんて試みない。だから説明することを諦めるな。それが人を信じるということだから。
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電車に乗っている間はずっと目を閉じているので、小説は本当に読まなくなった。唯一読んだ年森瑛の『N/A』は時間潰しに訪れた本屋で前を通り過ぎたものの帯文が気になって引き返して買ったもの。お墨付きをもらえない言葉で戦うということ、既存の考え方に当てはめてくる人たちのこと、少数派になれない少数派のこと。自分にとって救いの書になった。この世には本当に頭のいい人間がいる。そのことに対して、もちろん悔しさはある。
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2022年。そのほかは何をして、何を考えていたか。
2月には鈴井貴之の舞台『D-river』を観に行った。人の演技を生で観たのは初めて。まだコロナが落ち着いていない頃で、しかも東京では珍しい大雪が降った。その影響もあってか、空席もちらほらと見えた。「もしかするとこの公演期間中に満席を見ることはないのかもしれない」と舞台終わりに鈴井貴之がそのことについて触れた。でも、今日ここに来ないということもその人の選択なのだ、と。会場が少し静まったような気がした。これまでただ“無”でしかなかった空席の上に人の存在を感じた。
今はどんなイベントに行っても、コロナなんかないみたいだ。コロナは有耶無耶に終わった(終わってはいないが)。世界であれだけ騒がれていたものが、こんなふうになあなあの感じで終わっていくことをきっと僕たちは忘れてはいけないのだと思う。
そのあとはずっと引きこもって前述の通りNetflixを観ていた。サマソニは行こうかと思ったけど、面倒臭くてやめた。基本的に「行きたい」というより「行った方がいいんだろうな」という考えで動く。「行った方がいいんだろうな」と考えてしまうのは、どんな場所でも「自分の存在が、その場所にとってふさわしくない」と思っているからだ。そしてたいてい「行った方がいいんだろうな」は「面倒臭い」に負ける。
それでも「面倒臭い」を抑えてどこかへ行くとなにかしら感じたりするので「行った方がいいんだろう」。そういう意味で8月終わりのライブは印象的だった。会った人には話した(し、それで満足した)ので、スタンディングオベーションで立たなかった女の子についてはここに書かない。しかし、1曲だけ好きなバンドを聴きに行くもんじゃないな。
10月は数年ぶりに先輩と飲みに行った。誘ってくれて嬉しかった。比較できるものじゃないけど、今年一番楽しかったかもしれない。The Flaming Lipsの『The Soft Bulletin』の一曲目のイントロを聴いた瞬間、歌詞がどうであれ、これは愛の歌なんだと、愛について歌っているんだと直感したというエピソード、本当に最高すぎて絶対にいつまでも記憶していたい。
嬉しい出来事と言えば、そのほかにはバンドのメンバーの結婚式に出席した。結婚式は最高の気持ちになれるのでイベントの中で一番好きだ。自分が結婚することは絶対にないけど。そのことが「絶対」のように、自分が幸せになれることも絶対にないので、これまで関わった「いい人」が幸せになってくれたらそれでいいな、という心境で最近は生きている。
M-1はウエストランドが優勝して本当によかった。優勝して泣く芸人に惹かれてきたけど、M-1に優勝しても泣けない井口浩之のねじ曲がり方に心打たれた。今回のM-1はネタではなく、芸人としてのアティチュードが初めて決め手となった大会だったと思う。ウエストランドの最終決戦のネタ終わりの、立川志らくのあの表情よ。さや香はあれだけ完璧で面白い漫才を披露して優勝できないのだから、やっぱりM-1は道理が通用しないのだ。審査員に文句を言っている人がいるけど、審査員の好みや性格が採点に全く反映されないなら、審査はすべてAIに任せればいいと思う。それはそれでW杯のVARに感じたようなモヤモヤを視聴者の胸に残すだろう。
そして前後するが、9月。人生が2022年9月以前・以後で分かれるほどの決定的なことを、俺は半ばヤケクソで、でもしっかりと意識的に始めていた。どうとでもなれ、と。
なにが起きたか、誰にも話す予定はない。が、この世界で一人だけそのことを知っている。その人は秘密の鍵が渡されているとは知らないし、ましてや俺に興味がない。肝心なその人に興味を持たれないこと、俺はこれまで誰にも興味を持たれてこなかったから、そのこと自体はどうということはない。これは願掛けなのだ。独りよがりの祈りなのだ。そしてたいていの祈りは通じない。
このnoteは、僕がこの世界で出会って好きになった本当に数少ない知人が読んでくれている(というか他に読者はいない)のだけれど、彼らにも打ち明けることはないだろう。こういう秘密主義がダメなのだと分かってはいるのだけど。
28歳になり、俺はきっと諦めたのだ。この歳にして、こんなにレベルの低い頭で生きているとは10代の頃は思わなかったなあ。それで、少しずつ心がけていることをやめようと思った。成人してからの人生は、きっと思春期に抱いた誤解をひとつずつ解いていくためにある。誤解を解いていくなかでそれでもやめられなかったこと、それが「俺」ということなのだろう。
2022年。人生への諦めが深刻になり、「早く死ぬに限る」と考え続けた一年だった。
意識は水面のようなものだと考える。「早く死にたい」という意識が、頭の中に水のように張っている。音楽や映画や小説がその意識を掻き回してくれる。ひとりになり、波紋が静まると「早く死のう」という思いにまた頭が支配される。ずっと、ただそれだけを考えている。暗い水面を見下ろし続けている。
だから撹拌し続けろ、死に追いつかれる前に。
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