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謳歌

 己の怠惰が祟り、音楽のデータファイルがすべて破損した可能性があるので、2月に入ってから毎日パソコンにCDを取り込む作業をしている。あくまで「破損した可能性」なので今の状況を放っておくこともできるのだが、ある日聴きたくなった曲が途中でブツ切りで終わって気持ちを台無しにされるのも嫌なので、戒めの意味も含めて一気に作業をすることを決めたのだった。馬鹿だと思うが、実際に馬鹿なのだから仕方がない。ひとつ幸いだったのは自分がレンタル派ではなくCDを買い集めるようにしていたことで、だからCDを取り込んだあとはiTunes, Amazon, Bandcampで購入したものを再ダウンロードすれば8・9割がた復元することができる。学生時代に友人から貸してもらったものは買うかレンタルするかしかない。
 仕事から帰ってきて深夜2時くらいまで、土日は起きてから寝るまでずっとインポートし続けて残り半分というペースなのでおそらく3月いっぱいまでこの修復作業はかかるだろう。この途方もない作業は根底的には憂鬱なものではあるが、しかし音楽を聴き始めた中学3年生からの十数年間を振り返る要素も兼ねているのでまあまあ面白いところもある。聴きまくったアルバム、好きなバンドなのにあまり聴かなかったアルバム、一曲だけ再生回数が異様に伸びているまったく聴いていないアルバム……その曲をなぜそんなに聴き込んだのか忘れてしまってはいても、過去の自分がそのときその瞬間その曲が必要で何度も繰り返し聴いていたことは明らかで、その事実にはなにかグッとくるものがある。
 短期間に大量の音楽のデータに目を通しているうちに気付く傾向もある。2010年代以降の音楽をあまり聴かないのは、自分が"同時代性"を忌避しているからか。しかし自分の性質を除いたとしても過去の音楽の偉大さは普遍的な域にまで到達しているはずで、特に1977年、1984年、1994年、2001年前後に発表された作品群には目を見張るものがある。面白いと思ったのは1978年にはPublic Image Ltd.の1stが出ていたこと。初めて知ったわけではないが、Sex Pistolsが解散したその年にはジョン・ライドンが新しいバンドで1stを発表していた事実は、自分の中でうまく繋がり合っていなかった。ジョン・ライドンはSex Pistolsのボーカルとして語られることが多いけれど、1978年から現在に至るまでPublic Image Ltd.で活動しているのだから、3年で解散したSex Pistols時代のみの印象で語られてしまうのはやっぱりおかしい、というか不自然なんじゃないか。
 こういう思考に行き着いたのには理由というか元ネタがあって、ちょうど一ヶ月前あたりにThe Smithsのモリッシーがジョニー・マーに向けた長文の公開書簡を自身のホームページに掲載したことがニュースになった。公開書簡は、もうインタビューで自分について言及するのはやめてくれないか、という内容だった。

「実際のところ、あなたは僕を知らない。僕の人生も、僕の意図も、僕の考えも、僕の気持ちも、何も知らない。それなのに、あたかも僕の本能に直接アクセスできる個人的な精神科医のように話している。僕たちが知り合ってから35年も経っていませんが、それは何世代も前のことです。」
(引用元:https://amass.jp/154732/

 この記事を読んでハッとするものがあった。僕たちはThe Smithsが解散したことを知っているけれど、The Smithsが解散したのは35年前であることをまったく意識していない。僕たちはモリッシーとジョニー・マーには特別な関係性があると信じ込んでいて、彼らが今なお繋がっている前提でThe Smithsを振り返る。しかし実際はこれまでのインタビューから分かるように関係が途絶えていることは明らかなのだ。それなのに今や他人となった過去のバンドメイトの情報を引き出そうとインタビューで聞き続けることはすごく異常なことなんじゃないか。

 ルールにしているわけではないけれど、日々新しいアルバムを聴くようにしているので、一年のうちに過去に聴いていたアルバムを聴き返すことは少ない。ほとんど0に近いと言っていい。嫌いになったり好みが変わったりしたわけではなく、新しいバンドや楽曲を知りたい探究心のほうが強いからだが、この音楽の聴き方が習慣となって数年が経った今でも違和感を覚えることは時々ある。この聴き方を続けているかぎり、これまで好きになってきたアルバムを聴くことはもしかしたらこの人生でもうないのかもしれない、と。もちろんいまこの瞬間から聴き始めることはできるのだけど、それは情緒のない意見で、僕が言いたいのは全くそういうことではない。パソコンにCDを取り込んでいたこの一ヶ月、たくさんの曲が何年間も再生されていないのを目の当たりにして懐かしさに打たれるその一方で違和感とも格闘していた。歌詞を覚えられるまで好きになった曲を聴き込むこと、手当たり次第に音楽の歴史を知り尽くそうと試みること、どちらが自分にとって"いい聴き方"なんだろう? しかしこの答えはすでに自分の中では出ていた。
 人生の意味とは「この瞬間のためにこの生はあった」と感涙する出来事に直面することだ、という理解が正しいとして、僕にとってその瞬間はすでに通り過ぎておりとらそこねたと考えている。だが振り返ってみれば、僕の人生は全体として惨めなものではあるけども、「自分の人生にこのような時間があってよかった」と思える瞬間はたしかにある。それはつまり前から勢いよく飛んでくる矢をとらえるよりも、後ろに散らばった矢を拾い上げることのほうが簡単だからだろうが、音楽に焦点を絞れば、いまはもう聴かなくなったとしても、そのバンドやアルバムを繰り返し聴いていた"あの時間"は「自分の人生にあってよかった」。そして"あの時間"は"あの時間"のまま保存されるべきなのだ。

James Cole: The movie never changes. It can’t change; but every time you see it, it seems different because you’re different. You see different things.
— 12 Monkeys

 映画の内容はけして変わらないのに、観るたびに異なる印象を受けるのは前に観たときから自分自身が変わっているからだ。考え方、価値観、着眼点の変化……だが単純に物語の筋を知っているから、というのも大きな理由のひとつだろう。初見では物語を理解するために頭を使う必要があるが、2回目以降は展開を追いかける必要がないので余裕があり、違うところに目が向く。観る側は頭の中の物語の筋をたどりながら前に観たときの感情や心の動きも併せてなぞっているわけで、つまり2回目以降の鑑賞には己をスキャンする要素が加わっている。
 好きな曲を繰り返し聴くことの問題点はここにある。そのバンドやアルバムを集中的に聴いていた時期が終わり、ある期間を経たあとに聴き返したとき、僕たちはもう"曲自体"を聴くことはできない。衝撃を受けることと、受けた衝撃を振り返ることは違う。純粋に曲を聴くことよりも"あの時間"を反芻することに比重が置かれてしまう以上、楽曲は感傷を呼び起こすためのスイッチと化している。感傷に浸ることを好む人は多く、僕もその良さは否定しないけども、のちに感傷の材料となる時間を過ごすことの方がはるかに価値高いと思うから、だから結論としては、もう今後の人生で聴かなくなったとしても、その曲を好きになったこと自体がより大切なのだ。少し寂しいような気もするが、(文章を重ねるけども)"あの時間"は"あの時間"のまま保存されるべきなのだ。少しの上塗りも書き換えも必要ない。
 俺は"あの時間"、つまり自分の思い出を変えられたくないんだな、と理解したのは昨年のこと。昨年、Nirvanaの2nd『Nevermind』のジャケットに写っている"ニルヴァーナ・ベイビー" スペンサー・エルデンが、「性的搾取」を受けたとしてバンドを児童ポルノで提訴したニュースは読めば読むほどに不愉快な気持ちにさせられた。スペンサー・エルデンは自身の体に『Nevermind』のタトゥーを彫り、アルバムのリリース25周年にはジャケット再現の撮影をしているのにも関わらず、「生涯にわたる損害を被った」という主張は不可解で、最悪だった。
 90年代のオルタナティブ・シーンを象徴するあのジャケットを僕たちは提訴前とは同じ目で見ることはもうできない。勝手に人の記憶や思い出を書き換えることはもはや暴力で、『Nevermind』に直接的にも間接的にも影響を受けた数えきれない人々の記憶を汚したスペンサー・エルデンの罪は重い。

 データが「破損したかもしれない」という疑念が「破損しただろう」という確信に推移して始まったこの日々は、しかし他人からしてみれば異常なものだろう。おそらくはこの後の人生の基盤を成すはずの20代、俺は誰とも関らず延々とパソコンにCDを取り込んでいる。他者に対して抱いた「この人たちに傷つけられるかもしれない」という疑念は、思春期の終わりには「きっと傷つけられるだろう」という確信に変わっていて、いまはひとりでいることに寂しさは覚えずむしろ安堵する。


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