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テキサスに眠るもの

これは412回目。UFOです。

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1947年、アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェルにUFOが墜落し、軍当局がこれを確認、地球外生命体の遺体を確保したことも公表しながら、その翌日には観測気球を誤認したものだったと、前言撤回をしたのはよく知られた話だ。この話は大変多くのことがあり、面白いのだが、有名なだけにここでは割愛しておこう。

ただ、はっきり言えることは、高速で地表に激突した物体を、観測気球であるなどと、プロ軍人集団が誤認するわけがないだろう、ということである。実際、当時の記録では当日同時間同地上空近辺に、気球を飛ばしていたという事実は、無いのである。

しかし、アメリカでUFOが墜落し、地球外生命体が確保されたのは、実はこれが初めてのことではなかった。ロズウェル事件の50年前、つまり、西部開拓時代にもあったのだ。

それはライト兄弟が初飛行に成功する6年前であり、UFOという言葉も、飛行機というものも、まだ存在しなかった時代である。

1897年である。日本では、2年前に日清戦争が終わっており、7年後に日露戦争が始まる、ちょうどその間にあたる。

その年、テキサス州北部の片田舎、オーロラ市に轟音が響き渡った。南方から出現した葉巻型の飛行物体が、同地に居住していたプロクター判事宅の敷地内にある風車に激突し、墜落して大破したのだ。

当時の新聞記事にはそうなっているが、UFOほどのものが、木製のきゃしゃな風車に激突したくらいで墜落したりすることもないだろうから、おそらく激突以前に、飛行不能状態となっていて、墜落し、その途中たまたま風車を破壊したということなのだろう。

墜落してきた飛行体の残骸は、プロクター判事の農場内、約50メートル四方に散乱した。駆けつけてきた警察によって、少なくとも一体の乗組員と見られる遺体が回収された。

当時の地元新聞を収録したマイクロフィルムには、以下のような記事が残っている。

(記事翻訳)
今朝6時頃、オーロラ上空に突如飛行船が現れ一帯を航行し、早朝の住民たちを驚かせた。同飛行船は真北に向かうと、危険なほど地上に接近した。速度はわずか時速20~30キロほどで、徐々に地上に接近したことから、機械系統に何らかの故障があったと思われる。公共広場を越え、町の北のはずれに達したところでプロクター判事の風車のやぐらに衝突した。
すさまじい爆発で飛行船は粉々になり、残骸は約50メートル四方にわたって飛散した。風車と水槽が破壊され、判事の花壇も台無しになった。
同船に搭乗していたのは操縦士一人とみられている。遺体の損傷はひどかったもののほぼ全身が回収され、この操縦士がこの世の者ではないことがわかった。 同町で米軍通信機関に勤め、天文学の権威でもあるT・J・ウィームス氏の意見によると、この操縦士は火星人ということだ。
操縦士が身につけていた書類は航行日誌とみられているが、未知のヒエログリフ(象形文字)のような文字で書かれていて解読はできていない。船体は見る影もなく大破しているため、その構造や動力については何もわかっていない。アルミと銀の合金のような未知の金属製で、重さは数トンに達するとみられる。
現在、同町にはこの墜落事故を一目見ようとする野次馬や、残骸から変わった金属の標本を捨い集めようとする人たちがつめかけ、ごったがえしている。 操擬士の葬儀は明日正午に執り行われる。
署名 E.E.ヘイデン
1897年4月19日付け地元新聞

まだ、飛行機もなかった時代にもかかわらず、非常に淡々とした報道になっている。T・J・ウィームス氏という人物が、どういう根拠で操縦士を火星人だと断定したのかはわからない。

他紙であるフォートワース・レジスター紙でも事件のことが触れられていたが、『パイロットはこの世の者ではなかったが、オーロラ共同墓地にてキリスト教式葬儀が執り行われた』とだけ簡潔に報じている。

問題は、この「操縦士」である。記事の通り、操縦士の遺体は教会葬によって弔われたあと、村の共同墓地に埋められた。

現在でもテキサス州の歴史保存に携わる委員会によって立て札が立てられ、その説明にもこの事件のことが触れられている。 ――1897年に近隣で宇宙船が墜落し亡くなった操縦士がここに埋葬された。とある。

(宇宙人が埋葬された墓地)

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プロクター判事の敷地に散乱した残骸や航行日誌とみられる書類などは、地元警察によって回収、遺棄されたとなっているが、その後それらがどういう経路をたどり、どうなっていったのかは、不明である。(「書類」となっているが、われわれが連想するような紙の書類だったのかどうかは、不明)

だが、残骸の一部はプロクター判事によって敷地内の井戸に投げ込まれたということであった。 その後、1945年(第二次大戦終戦の年)にプロクター判事から土地を購入したブローリー・オーツという人物が井戸の底をさらい、破片を取り出した。破片がどうなったかは報じられていないが、オーツ氏や、家族たちは直後から重度の関節炎を発症する。写真を見る限り、まるで被爆した場合の症状に非常によく似ている。

これは、残骸からしみ出した何らかの成分によって汚染された水が原因であると考えたオーツ氏はポッカリ空いた井戸をコンクリートで埋めた。

オーツ一家は全員が嚢胞や甲状腺腫などの病気を患っており、家族は墜落事故が起きたところにあった古井戸の水を飲んだせいだと確信している。

実際、「井戸は放射能で汚染されていると聞かされていた」とエッダ・オーツ夫入は打ち明けている。彼女は、「畑の中に宇宙船が衝突した跡があるけど、そこには何年も草一本生えなかった」と述べた。

1973年に、この19世紀に起こったUFO墜落事件のことが、再び注目されることになった。このため、作家のジム・マーズが、宇宙人の墓を訪れ、取材している。マーズはこう書いている。

《小さい墓なので、埋葬されているのは子供か、非常に小柄な人物であることがすぐにわかる。墓の上には何でもない石をのせて笠石(かさいし)にしてあった。墓碑の半分は崩れてなくなっていた。残る半分には一方の脇に大きなV字に似た形が彫りこまれていた。V字の内側には小さな円が三つ描かれている。その彫刻全体は円盤型構造の縁の部分によく似ていて、小さい円は舷窓のようだった。私はその付近一帯の古い共同墓地を知っていたが、たいていは初期の入植者たちの墓と南部連合軍兵士のマルタ十字の墓碑が立てられている。このタイプの墓碑は非常に珍しく、好奇心がかきたてられた。》

マーズは、一緒に訪れた人たちと、地中レーダーでその場所を確認したところ、『小さな墓穴があること』『3つの金属反応があること』が確認されたが、墓所の管理組合から発掘の許可が下りなかった。


近隣住民が『身内の墓まで荒らされる』と思い込んで、科学的調査に対して反発したようだ。自警団のような組織まで作られ、墓場を見張っていたのだという。当時のオーロラの保安官HRアイデルにいたっては約二週間、武装して共同墓地を警護し、一切の発掘を許さなかった。

ところが、である。それほどマーズたちの「無許可発掘」を警戒して、武装までしていたアイデル保安官ほか、地元の自警団がいたにもかかわらず、通称『パイロットの墓』から墓石と金属片、おそらく遺体まで消えてしまった。新たに、小さな石がその場所に置かれていただけだったのである。

墓石が消えた3ヶ月後、ジム・マースとビル・ケースが現場に再び赴いたが金属反応はすっかりなくなっていたのだという。ビルケースは盗掘者が「政府だ」と言い残し翌年に世を去った。

後年、アイデル保安官の息子ジェームズ・アイデルが証言している。彼の祖父、つまりはアイデル保安官の父親が、UFO墜落当時、パイロットの埋葬を手伝ったのだという。

祖父の話によると、UFOの操縦士は、身長は90センチくらいで、頭の大きい宇宙人だったそうだ。ほかの目撃者の談話も残されているが、一番大きいもので120センチくらい、というのであるから、いずれにしろ、かなり小さな体格だったといえそうだ。

さらにジェームズの父親であるアイデル保安官だが、誰が笠石を盗んだか、彼は知っていたが、詳しくは息子に話してくれなかったという。公職上の秘密だと言うことだった。

2008年、オーツ家(旧プロクター判事邸)で採取された、溶けた金属片を調べると、アルミの鉄の合金であることが判明している。この合金は、事件当時には存在していなかった。現在でも一般的ではない。わずかに原子炉の燃料被膜材料に使用されるのみである。

このほか、墜落現場付近に生えていた、樹齢200年の樫(かし)の木が、強い金属反応を示しており、井戸の水から高濃度のアルミニウムが検出された。

この事件に対して、「これはデマであり、でっちあげのホラ話だ」として、あたかも隠蔽側に加担するかのような発言を繰り返していた、郷土史家のエタ・ペギューという人物がいる。この人物は、「そもそも、プロクター判事邸には、風車小屋など無かった」と、事件をよくできた作り話だと全否定していたのだ。が、2008年の追跡調査では、井戸周辺の表土を除去する際に、風車小屋の基礎が発見されている。これにより、ぺギューの説は覆されている。

ちなみに、この共同墓地の所有権は誰にあるのか、というと、驚くべきことにフリーメイソンである。なぜ、マーズたちの発掘許可が下りなかったのか、わかったような気がするではないか。背筋が寒くなるというのは、このことだろう。テキサスの片田舎にまで、隠蔽は及んでいることになる。あらゆる物証や痕跡は、無かったことにされているのだ。

1969年7月20日、アポロ11号が月面着陸したが、実際に月面を歩いたのはアームストロングとオルドリンの二人である。(ちなみに、オルドリンは、フリーメーソン会員である)
二人は、世界各国の指導者たちからの、「平和と友好を願う」メッセージが収められたディスクが入った金属板を、月面に残してきた。一体、誰にたいするメッセージなのであろうか。そもそも、地球外生命体が存在しないと思うなら、なぜ、そんなものを残す必要があったのだろうか。

異星人たちはこれにどう応えたのだろうか。アポロ計画は17号で終わったことになっているが、その後、20号まであったという疑惑が出ている。20号に搭乗したという飛行士が暴露しているからである。もちろん、これは事実確認がまだできていない。

その後、NASA(米航空宇宙局)は、地球を周回するだけのスペースシャトル計画に、切り替えている。

1991年9月12日、ディスカバリーが打ち上げられ、高度600キロメートル上空を周回する軌道に入った。ジョン・クレイトン船長をはじめ、クルーたちが忙しく船内作業をする様子がリアルタイムで公開されていた。

このとき、後部貨物室のドアに設置されていたビデオカメラが、とんでもないものを映し出した。たくさんの飛行物体がいたのである。

それらはみなバラバラに、静止しては急加速し、まったく逆方向に反転直進したり、と異様な光景である。素人が観ても、それらが流星のたぐいではないことが一目瞭然の映像である。

船内でもこれに気づき、船長の「われわれは取り囲まれている」と切迫した状況をNASAに通信している音声も流れた。しかし、音声のほうはここで途絶えた。公衆回線を使っていたことに気づいて、専用回線に切り替えられたとおもわれる。しかし、このとき世界中の民間人や研究所が、この一部始終を傍受しており、動画も収録されている。

民間のUFO研究団体は、NASAに対し、分析研究のため、映像の原板の公開を要求したが、NASAの返答は不気味なものだった。けっして、そんなものは存在しない、という全否定ではない。そのような映像は、「もはや」存在しない、と答えて、要請を拒否したのである。

おそらく、裏のとれた確実な物証として、UFOの目撃映像と音声という点では、これが最も有名なものであろう。ディスカバリー・チャネルや、Youtubeなどでも一般に視聴することができるという点でも、大変貴重なものだ。

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