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UFOとの交戦記録(中)

これは362回目。次は、朝鮮戦争当時の米軍の公式記録です。

(一部、以前書いた【国家機密としてのUFO】と重複しています)

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朝鮮戦争でも、UFOと米軍の遭遇事件が多発している。米軍戦闘機がUFOと、「頻繁」に交戦状態に入っていたのだ。米軍の方針が、UFOを視認したら撃墜せよというものだったからだ。それによって、多くのパイロットが危険にさらされた。被害者も出ている。

1951年9月、仁川(インチョン)港付近。軍事境界線から南に150キロ。敵(北朝鮮軍)のトラックの隊列を発見した米軍は、海上の空母から戦闘機3機を発進した。

パイロットのほか、狙撃手も同乗していた。三機は、陸上のターゲットを確認、爆撃行動をしようとしたとき、北西から巨大なUFOが二機、接近してきたのだ。

パイロットたちは、目を疑った。なにしろ、UFOの直径が少なくとも200メートルはあったからだ。速度は、時速2000キロと推定された。

後部座席の狙撃手が発砲しようとするが、銃器はどうして作動しなかったという。救援を要請しようにも、無線も機能停止状態となった。しかも、3機同時に、同じトラブルに見舞われているのだ。

パニックになったパイロットたちは、このうち2機が母艦への帰還を始めた。すると、UFO二機は残った一機を追尾し始めた。

まるで、米機をうかがうように、UFOは米機の周囲を旋回しながら飛行していたという。やがて、UFOはたちまち消え去った。一機は攻撃されずに済んだ。生きて帰ってこれたのは、武器を発砲できなかったためかもしれない。あるいは、UFOが、米軍機の機能を制御することで、米軍が先制攻撃できないようにしていたのかもしれない。

いずれにしろ、おびただしい公開文書の記録では、UFOから先制攻撃をしているケースは、ほぼゼロである。常に、米軍の先制攻撃に対して、UFOが対応しているのである。

当時、1952年の報道では、ペンタゴン(国防総省)は1950年から始まった朝鮮戦争で、(このとき2年弱が経過した時点)少なくとも20件のUFO遭遇事件があったとしている。軍や政府が、事態を隠蔽できないほど大ごとになっていたようである。

命令を受けて攻撃をしかけたパイロットは、ほとんど戻ってこなかった。1952年から1958年にかけて、米空軍は甚大な被害を被っている。実際、1953年2月、米空軍・航空総隊司令部のベンジャミン・チドロー大将は、「空飛ぶ円盤に関する報告が山積みしている我々は、事態を真剣に受け止めなければならない。円盤を迎撃すべく努力した結果、我々は、多くのパイロットと戦闘機を失っている。」と証言している。

もちろん、地上戦でもUFOとの交戦記録がある。その一つが、「鉄の三角地帯事件」だ。

これは、上記の事件の前年、1951年4月、南北朝鮮の軍事境界線にまたがる山岳部、「鉄の三角地帯」でのことだ。義勇軍と称して中国人民解放軍が、朝鮮戦争に軍事介入していた。米軍は、この「鉄の三角地帯」で人民解放軍と戦闘状態にあった。

その日、米陸軍第25師団第2大隊E中隊が「鉄の三角地帯」に投入されていた。フランシス・ウォールという一等兵らがチョルゴンの丘上に配置された。眼下の村(人民解放軍が進駐していた)を砲撃する予定であった。

夜、E中隊が砲撃を開始すると、頭上に不思議な物体が飛来した。ウォール一等兵たちは、丘の右側を光る円盤が飛んでいるのを発見した。動きは早く、明らかに射程内にあるにもかかわらず、撃っても銃弾はかすりもしなかったという。

ウォール一等兵の証言によると、円盤は彼らの真上に来て、静止したという。ただあまりに明るい光で、実際の大きさは確認できなかったという。

再び中隊長から、円盤への発砲命令が下された。ウォール一等兵らは一斉に銃撃したところ、円盤はこれに反応した。小刻みに不規則に振動し、エンジンを高回転で吹かすような音がしたと思うと、激しい光を照射した。

E中隊の兵士らが受けた現象は、今から推測すれば、ちょうどレーザービームのようなものだ。兵士たちは、皮膚が焼けるような熱さを感じ、光が当たっている部位は、まるでレントゲン写真のように、骨が透けて見えたと証言している。

中隊長は、全員地下の塹壕に退避させたが、その後も一向に円盤は上空にとどまったまま動かなかった。E中隊はふもとの人民解放軍と、頭上のUFOの間にはさまれて、身動きが取れなくなってしまった。

長時間、塹壕に引きこもっているうちに、もちろん恐怖感もあったろうが、兵士たちはみな非常に甚だしい身体的不調を訴え始めた。しびれ、頭痛、極度の耳鳴りなどでだれも立ち上がれなくなり、中には嘔吐するものも出始めた。

やがて、円盤は45度角で、空の彼方へ突然飛び去った。援軍が到着したのは、3日後である。E中隊はみな、歩くのもやっとの状態で、配置部隊は入れ替えとなった。この3日間、人民解放軍からの攻撃が無かったのは、不幸中の幸いである。あえてしなかったのか、それとも彼らもUFOの出現を確認していて、手出し無用と決め込んだか、これは不明である。

護送されたウォール一等兵たちは、医療検査を受けたのだが、みな一様に、通常では考えられないほど、白血球が増加していることが確認された。

87年になって、ウォールが取材記者たちに述べているところによると、頭痛や倦怠感、感覚のズレなどの体調不良は、現在までずっと続いているとしている。一種の被爆のような状態に近いのだろうか。

この朝鮮戦争中は、なにも戦場にだけUFOが出現したわけではない。米国本土、それも首都ワシントン上空に出現しているのだ。

1952年7月19日から27日にわたって、首都ワシントンD.C.上空に68機ものUFOが現れ、大勢の市民の目の前で飛び回るという事件が起きた。

UFOがナショナル空港に着陸する旅客機を追跡したり、迎撃に上がったアメリカ空軍のロッキードF-94B戦闘機を取り囲んでいるという報告がなされ、レーダーにも確認されている。民間航空機の複数の乗員は、上下左右に不規則に動き、速度を変化させたり静止したりする「異様な光体」を目撃している。

空軍が調査のために戦闘機を発進させ、光体に接近すると光体は消滅した。その後、光体は様々な場所に現れ、いずれも戦闘機が到着するとすぐに消滅し、空軍と光体のイタチごっこが続くこととなった。

深夜になると、光体はアンドリュース無線塔の上空に出現し、「オレンジ色に輝く巨大な球体」を通信員たちが目撃した。またバージニア州ニューポートニュースの人々は「互い違いに色を発して回転し、まぶしく光る物体」の目撃を報告した。この時期、ワシントン周辺は、多くのUFOが飛来しては、あたかも威嚇するかのような行動をとっており、全米が震撼したのである。

このように、第二次大戦中の西海岸、朝鮮戦争中の東海岸の、それぞれ大都市上空で、膨大な数の目撃者のもと、UFOが出現した事実がある。このため、アメリカではこうしたUFOというものの実在性に関して、非常に免疫性の高い社会体質になっている。頭からこの話題を否定する傾向は、他の国に比べて非常に少ない。

(続く)


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