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旅行記 ヨーロッパ短期旅行第三話 下

シェーンブルン宮殿の見学時間にはまだ時間があったので食事にすることにした。しかし休日に営業している店を探すのはなかなか難しかった。ようやく見つけたレストランでシュニッツェルとパンとビールを頼み一休みした。テラス席に座ったので人々がまばらに歩いていくのがよく見えた。東京でなかなかこんなのんびりとした光景はもう見られないだろう。ウィーンは人口がそれほど多くないこともあるが極めて町が落ち着いており調和が取れていた。かといってただの古くさい町かというとそうではなくEUの大都市としての威厳も保っており、不思議な魅力に満ちている。残っていたビールを飲み干し勘定を済ませると宮殿へ向かうため地下鉄の駅へ向かった。
階段で駅の階段まで降りる途中、何かアジア系の言語が大音量で聞こえてきた。始めはどこの国の団体客が来たのだろうかと思っていたが、それは紛れもない日本語だった。60代後半から70代と思われるその日本人達は大声でしゃべり、その声は地下で大きく響いてあまりにもうるさかった。かつての日本人観光客のマナーが悪かったということを聞いたことがあったが、まさかそれをこのウィーンで体験することになるとは思わなかった。旅をすると色々なものに会うものだ、できることは我が身を正すことのみである。電車に乗り再びシェーンブルン宮殿の最寄り駅に降り立つと先ほど購入したチケットを提示し宮殿の敷地に入った。目の前にはテレジアンイエローの美しい宮殿のファサードが目に映った。イエローなのだが決して下品な派手さはなく、かといって安っぽさは一切感じさせない素晴らしい色である。宮殿本館の入り口に行き再びチケットを提示すると、係員に音声マイクの言語は何語にするかと尋ねられた。どうやらチケット料金に音声ガイドの料金が入っており強制的に音声ガイドをつけさせられるようだ。仕方なしに日本語と答えた。正直言って私はこの音声ガイドがあまり好きではない。どうしても雑音に聞こえてしまい見学に集中できない。渋々電源を入れて聞いてみたが宮殿の部屋ごとの説明がされており確かによくできているが、部屋ごとに番号を切り替えたりなどいちいち面倒なため、途中から電源を切りヘッドホンも外してしまった。多くの人がヘッドホンからの情報を聞きながら見学しているのを見ると自分の不器用さに呆れるばかりだが、聞きたくないのだからしょうがない。宮殿の感想だがロシアのエルミタージュなどに比べると装飾や家具が落ち着いており趣味がいいと言える。ただこうした大宮殿は見てるとだんだんとどうでもよくなってしまうところがある。どこまで言っても同じような部屋と廊下が続いており、絢爛豪華な金の装飾やシャンデリアも始めこそは素晴らしいと思うがだんだんと飽きてきてしまう。エルミタージュも絢爛豪華な冬宮殿よりも、質素な新館の方が人も少なく、しかもマティスやカンディンスキーなどの名作が大量に飾られており私としてはそちらの方がよっぽど気にいっていた。しかしやはり人々は黄金に引き寄せられていくものなのだろうか。美意識は人それぞれということにしておこう。
宮殿散策をそこそこに、宮殿の裏手の出口を出ると小高い芝生の丘の上にグロリエッテという建物が見えた。宮殿を見たあと特にすることもないので丘の上にひとまず登ることにした。芝生ではあちこちに人々が気持ちよさそうに寝転がっている。不意にふく風が長めの芝生を程よく揺らすと私の歩みもだんだんと早くなっていく。それはなんとも言えない心地よい感覚だった。23というあやふやで素晴らしい年齢。私の歩みはどんどん早くなっていく。後ろを振り返ると次第にウィーンの町が姿を現してきた。それと同時にグロリエッテの姿も間近に迫ってきていた。丘の頂上につくとウィーンの町が一望できる高台になっており、グロリエッテの後ろには噴水用のためか貯水池があり周囲の芝生と美しいコントラストを成していた。私はグロリエッテの石段に座り、ぼおっとすることにした。側にある空き地では4人組のインド人青年がオーストリア人女性の大道芸人を冷やかしていて楽しげな声が聞こえてきた。女性もまんざらでもなさそうでフラフープを使った芸で愛嬌を振りまいていた。この美しく気ままな空間で私は遠い島国での面倒事を思い出していた。9月に開催されるゴルフコンペの事である。入社1年目の私は強制的に出席名簿にいれられており、自分でキャンセルの連絡を幹事に直接いれなければ参加する羽目になってしまう状況にあった。私はゴルフなどやったこともなかったし、参加したいなどという意志も毛頭なかった。しかし社長の肝いりのイベントのため経営企画部や幹事も人数集めに奔走しておりなかなか1年目でキャンセルというのはハードルが高かった。なにしろ月の給料から引き抜かれている課外活動費の7割をこのコンペの開催につぎ込んでいるくらいであるから相当な力の入れようである。しばらくコンペに関して話すが、開催会場の宿泊施設には社長が楽しんでお酒を飲む部屋が2つ用意される。2つの部屋とも社長の他に女性社員が何人か呼び出されて、そこで楽しくお酒を飲むのだ。しかしなぜ2つあるかというと各部屋にいる女性の年齢層が違うのだ。片方の部屋には20代から30代、もう片方の部屋には40代から50代が集められる。セクハラはないようだがシステム自体がまるでセクハラである。こんな独裁者の道楽のようなものが今時会社にあるのかと思う読者もいるかもしれないが集団や組織に入ると人間は品性が堕落するのか、特に我々日本人はこういったものを許すというか見ないフリをしてしまう傾向があるようだ。まぁとにかく色々ひっくるめて参加したくないなぁと思いながら辞退の決意もあまりできていない、よくある1年目の状態にあるわけである。目の前の景色が美しいだけにより一層憂鬱になってきた。あれこれ不必要に悩んでいると、私の下段の石段に1人の男が座った。眼鏡をかけた金髪の青年でやや神経質そうな雰囲気を感じさせた。双方1人ということもあり私は話しかけてみることにした。「やぁ、どこから来たの?僕は日本から来たんだ。」彼は突然話しかけてきた私に驚きながらも真っ直ぐ目を見て「日本か、随分遠いな、僕はスイスのチューリッヒから来たんだ。クリストフだ、よろしく」名前から察するにドイツ系のようだ。話をきくにチューリッヒ大学で数学と哲学を学んでいるようで、現在は大学院生だという。「シェーンブルン宮殿の前はどこへ行ったんだい?」「ベルベデーレさ、とても素晴らしかったよ、特にエゴンシーレの死と乙女は傑作だよ。」私はうれしくなり会話が弾んだ、それから、シェーンブルン宮殿の庭を歩きながら哲学の話や音楽の話など色々な話をしたあと、ウィーンの町を2人で散歩することにした。地下鉄で移動しホーフブルクの側までやってくるとフードを被った人々が蝋燭を持ち、隊列を組んで歩いている光景に出くわした。とても厳かな雰囲気が漂っていた。「カトリックの儀式だよ、僕の国でもこんなの見たことないよ、」「君の国はプロテスタントだもんね、もう少しシンプルな儀式なのかい?」「そうだね、こんな厳かで装飾がある儀式はないね、それにやはりここはハプスブルク家の都だしね、それもあってこういう文化が残っているんだよ」ハプスブルク家という存在は帝政が滅びた後もヨーロッパにおいて、とても強い影響力を未だに発揮しているようだ。現在でもドイツやオーストリアでハプスブルク家の流れを組む人々が宮殿や城を相続しているケースがあり、私達の日本でも天皇の存在によって伝統文化が存続している側面は多分にあるため、ロイヤルファミリーによる文化保護というのはヨーロッパも日本も同じなようだ。私達はさらに道なりに進んでいった。するとヴォルクスパークという気持ちのいい公園に出た。「人民の公園か面白い名前だ」とクリストフは呟いた。公園で色々と2人で話しこんでいるとどこからか哀愁漂うギターの音色が聞こえてきた。「タンゴのリズムだ」クリストフは語気を強めて言った。公園の石段の上で1人のスキンヘッドの男がギターを引いており、聴衆も少なからずいた。夕暮れのウィーンに染みるとても心地いい音色だった。しかしこのギターの音色から私が勝手にイメージしているあの情熱的なタンゴというのは全く想像ができなかった。クリストフは小さな頃からバイオリンとピアノをやっていたらしく、そこで育んだ音感があるのかもしれない。才能というのは全く素晴らしい。
昼の長い夏だが、だいぶ暗くなってきた。クリストフは明日にはチューリッヒに帰るらしく、我々は再会を誓って連絡先を交換して、それぞれの宿に戻った。帰りの途中、テイクアウトでシュニッツェルを購入しホステルのロビーで食べた。味はいまいちだが腹の足しにはなった。私は部屋のベッドで横になりぼんやりと携帯を開いた。旅行での出会いが私に勇気を与えたのかわからないが、ゴルフコンペキのキャンセルをそこで入れた。携帯を閉じるとそのまま眠りについてしまった。

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