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マルドロールの歌、ミシンと雨傘

教養部第二外国語のフランス語を大学4年生までやり、というのも当時父親の「これからはアジアの時代だから中国語をやれ」との助言に猛反発して、さらにフランス語をやるとモテるという下世話な、でも正当な動機をもって誰よりも多くフランス語を勉強した。それでもせいぜい、ABC を「アーベーセー」と読めるぐらいしかならなかったが、しかし同じくモテたい病にとりつかれたフランスかぶれの友人ができたことは大きな幸せだった。私は彼とともに4年間、ランボーとボードレールについて、メルロ=ポンティについて、そしてマルドロールの歌について事あるごとに語ったのだった。

マルドロールの歌は、ロートレアモン伯爵という名義の若い無名の詩人が書いた詩集である。古本屋でこの文庫を買ってきては、微熱にうなされたように夜通し読んだものだ。全くわけが分からない。そもそも詩心も絵心もなく、いくら翻訳と言えど(いやそうであればこそ)この支離滅裂な詩の類など読めたものではなかった。でもミーは、イヤミ以上にフランスに憧れており、そんな装いをまとってマルドロールの詩集を肌身離さずバッグにしまい込んでいたざんす。

おフランスかぶれのその友人は、そんなことはなかったかのようにリクルートスーツに身を包み社会に出て行った。でも私は、当時も今もつきまとっている何かやり残した感覚、やってもやりきれない後ろめたさに捕われ、あれほど熱をあげたフランス文学とその哲学をきっぱりと捨てることができなかった。大学5年生となってから卒後もひとり、マルドロールの歌を読み返していた。

今ではシュールレアリズムの草分けだと言われている。言語による言語への挑戦状だとも言われている。でも私のマルドロールは、若者が熱に浮かされて、将来への不安の中、ふと舞い降りた薄明を見るような、そんな詩である。作者であるロートレアモン伯爵は、24歳で謎の死を遂げた。いま、私はその年齢をとうに超えてしまっている。

ある一節にはこうある。

「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように美しい」

ここには、出会うはずのないものが偶然出会ってしまった不思議さが歌われているように思う。その異質の響きは、異質ゆえにどこまでも響き渡り、ときに美をともなっているように感じる。その期せずして出会ってしまう偶然を安易に退けていいものだろうか。それがたとえ解剖台の上だったにしても、どうしても否定しようがないのだ。

他ならぬ偶然のカウンターだったマルドロールを今ではもう紐解くことはほとんどなくなった。でもときに落ち込んだとき、若者に戻ったような気分でそのページをめくることがある。

単なる「共感」という言葉では決して響くことのない出会いの偶然をいまもなお、やはり否定できないのである。


絵はダリによる挿絵 "Les Chants de Maldoror"


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