見出し画像

想像に飲み込まれない

あの人は今、どんな気持ちなんだろうか。それはどういうわけで、そういう気持ちになっているのか。こうかもしれない、ああかもしれない。私のせいな部分もある?でもこっちの人はこう思ってるかもしれなくて。

人の気持ちを想像しようとして、書いてみるときりがないことに気づく。考えたって、想像したって仕方ない。実際のところはその人に聞いてみないとわからないし、同じ物事を見ても感じることは人それぞれ。全員の気持ちに配慮することは無理だ。

想像しようとする中で使う言葉や態度には、やわらかさや相手への配慮が自然に含まれると信じている。想像できていたか、できていなかったか、というよりは、想像しようとする過程に、いらぬコミュニケーションの齟齬を生まない、大切な何かがあるように思う。だから私は、想像したいと思う。

けれども想像というのは終わりがない。どこまでも想像できてしまう。本当は違うかもしれないのに、まだ起きてもいないのに、心配したり、もやもやしたり、悩んだりとエネルギーが割かれる。

こちらが想像しながら誰かに関わったとしても、誰かが私の気持ちを想像してくれるとは限らない。見返りを求めるものではないし、わかってほしいと思うなら言葉にしなきゃとも思う。でもときどき、自分ばかりが人の気持ちを気にしてるんじゃないかと、何のためにそうしているんだろうと、わからなくなることがある。

やっぱりバランスなのだ。周りにいる人の気持ちを想像することは大切。「その人」をよく知りたいし、尊重しながら関わりたい。でも、きっと半分くらいしか想像することは無理だと割りきっておく。残りの半分のことは知ーらない。相手にしかわからない。


誰かの気持ちを全部想像しなきゃとエネルギーを使うんじゃなく、半分は、自分の気持ちを大切にしよう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?