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「やってみたい」を掬い上げる

ラピュタの冒頭でパズーが吹くラッパの音が、ふと頭の中で鳴った。

あ、トランペット吹いてみたいかも、と思った。金管楽器はやったことないけれど、できるかな。

ギターも弾いてみたい。弾いたことはある。1年だけクラシックギターをやっていたから。でもyoutubeで出てくるような、弾きながら歌うような人たちのように流暢には弾けない。いろんなコードを覚えて、自分が弾きたい曲が演奏できたら楽しいだろうなぁ。コードを押さえるあの手、指の動きがカッコイイ。

アカペラもやってみたい。楽器がなくても声だけで一つの音楽になる、魅せられるってすごい。サックスをやっていたころは、少人数のアンサンブルが好きだった。一つ一つの音が、どう重なり合っているのかよりわかる。アカペラもそれに近い。楽しそうに歌う姿に、見ている方も心躍る。

音楽のことばかりになってしまったけれど。「やってみたい」が自分の中に意外とあることに気づく。いや、気づいてはいるのだけど、わしわしっとかき消しているような気もする。

今から始めてもな。楽器買うにはお金もかかる。アカペラは一緒にやる人がいないと。どこで練習するのか。時間はあるのか。結局、どのくらいうまくなることを目指すのか。

こうやってできない理由がすぐにくっついてくるから、せっかく生まれた「やってみたい」気持ちが小さくなり、「やってみたい」ことをやるハードルがどんどん上がる。そして、やれなくなる。

日常の中に、同じようなことはたくさんあるのだと思う。これ買いたい、あれを食べたい、あの人に会いたい、こういう仕事をやってみたい。小さな「やってみたい」をいろんな理由でかき消していると、自分がやりたいことが、本当にどんどんわからなくなってしまう。

かき消す理由の一つに、ちょっとの「めんどくささ」のようなものもあると思う。あれが食べたいと思っても、あの店まで行かないと食べられないな、行くのか、行かないのか、とか。めんどくさいと感じるということは、本当にやりたいことじゃないのかもしれないけど、やりたいけどちょっとめんどう(手間)、だからいいやで流していることも多い気がして。

もったいない。「やってみたい」という気持ちは、外からはコントロールできない内側にある欲求だから、それが生まれかけては消されている現実があるとしたら、とてももったいない。

もちろんいろいろな事情で、やってみたいと思うこと全部ができるわけじゃない。でも、ちょっとのめんどくささを乗り越えればやれることだったらやったほうがいいし、人、お金、場所、時間が許すならば、自分の「やってみたい」を優先したほうが、きっといい。

良い意味で先のこと、後のことを考えない。今、この瞬間の、自分の気持ち、直感を信じて、優先してみる。

そんな生き方も、いいのかもしれない。




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