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note

Twitterのアカウントを作ったときのことはよく覚えている.
妻と息子の死,不在.そしてそれを受け入れざるをえないくらいの時間が経った,雨が降る日であった.

思い出や,悲しいとも寂しいとも言えるけれどそれだけではないこの気持ちや,日々の小さな物事をつぶやこうと.
人からかけられた言葉や,本や映画や音楽や,もちろん妻や息子を思い降ってきた言葉を忘れないように.
誰へというわけではなくとも,それでもどこかの誰かに呟くという形であればそれは自分の支えになった.

アカウントの名前はもちろん本名ではなく,妻と息子の名前を少しずつ借りてできたものだ.
僕はあるところで医師をしていて,三十歳くらい,まだまだ修練中である.
 
あまり知らなかったSNSの世界はとても広く深かった.どこかの誰かの日常や主張があって,争いや,見るに堪えないものもあって.
そしてそこには決して少なくない数の,家族や愛する人を失くした人々の心から溢れた言葉があった.
 
寂しくてどうしようもない時や,ふと思い出した時.
今日あったことを,妻と息子に話したい時.
帰り道のどこかの家の夕食の匂い.その日の空気の感覚.
あらゆることが痛くも痒くもなくなる一方で,些細なことで致命傷を負った時.
言葉を打ち出すきっかけはその時々でそれぞれであるし,何でもそうなりうる.
たとえば駅を出て甘い匂いがして.ドーナツかポップコーンか何か.二人がいれば探して買って帰ったのだろう.一人では何の匂いなのか確かめることもせず通り過ぎるだけで,それがかなしくてたまらなくて,涙をこらえて帰りながら文字を打ったことがあった.

呟いてそのまま眠りに落ち,朝になり通知の数に驚いたこともある.
こんなにも眠れない夜を過ごした人がいたのかと,僕の言葉は少しでも誰かの心に触れたのかと.
繰り返していたら,今となっては千を越える方々にフォローしてもらっていた.
言葉を紡ごうと思うと,よりはっきりと二人を思い出すことができると知った.
誰かの真夜中が,少しでも良くなっていたら二人は喜んでくれるだろうか.
 
Twitterを始めた時の気持ちに少し似ているかもしれない.仕事で少し余裕ができたこともあり,また妻と息子の不在はもうすっかりと日常になった.もちろんどうしようもなく恋しくて涙が出る日はあるが.

以前から,一人の時間を読書や考え事で埋めるようになり思ったことがあった.
妻と息子と,ついでに僕のことを書いてみたい. 簡単なことではないし,勉強も時間も必要だろうが.誰にも読まれなくてもよいだろう.
できるなら呟くよりも少なからずはっきりとした形で.noteはちょうど良いもののように思った.
 
今日のことも覚えているだろう.台風が過ぎた秋の夜であったと.
僕だけが知っている記念日に,書き溜めたつたない文章をそっと放ってみた.
やめてしまう理由はいくらでも出てきそうではあるけれど,書き続けたい.

花を飾るように,それが習慣になれば良い.悪いことではないのだと思う.



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