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【連作短編】はざまの街で#4「海を見下ろす公園で」

(9,190文字)

サーッと絶え間なく繊細な音を立てながら、絹糸のような雨が降り続いている。
その音に混じって、屋根から落ちる水の玉が、外に置かれた水瓶に落ちて、チャポンチャポンとリズムを刻む。
「梅雨ねぇ」
カウンターの内側で頬杖をつきながら外を眺め、力の抜けた表情で郁美が呟く。
向かい側のカウンター席に座っている来栖は、それには応えずコーヒーのカップを口に運んだ。
ランチタイムが終わり、店内には静けさが戻っていた。
「ねぇ、来栖さん」
外を見たまま郁美が来栖に話しかける。来栖は無言のまま郁美に視線を向けた。
「来栖さんはなんでここに来たの?」
少しの間、視線を合わせたまま無言の時間が流れた。来栖は手に持っていたコーヒーカップをソーサーの上に置いて、もう一度、郁美に視線を向けると口を開いた。
「分からねぇんだよ。覚えてないんだ、ここに来る前のことは」
「そう」
「まぁ、ロクなことをしてこなかった気はしてる。もしかしたらヤクザで、人のひとりふたりは殺してるとかな」
真顔でそう言う来栖の顔を見つめて、郁美が軽く吹き出すように微笑んだ。
「何が可笑しいんだよ」
「フフ。だって、来栖さんって、自分で思ってるほど悪い人じゃないわよ」
「からかってるのか?」
「そうじゃないわよ」
郁美はカウンターの内側から出てきて、来栖の隣の席に腰をかけた。
「もしそうだとしても、きっと何か事情があったのよ」
「事情で許されることじゃねぇだろ」
「そうね」
会話が途切れると、再びふたりの間に雨音が流れる。
「そう言う郁ちゃんはどうなんだよ」
「私?んー、実は私も覚えてないのよ」
「そうか」
「でも、私も何か大変なことをしてここに来たような気がしてるの」
来栖は郁美の横顔を見ながら、明るさの裏にどこか寂しさを感じていたことを、言おうとして飲み込んだ。
カランカランとベルの音を鳴らして、入口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
すぐに郁美が反応して立ち上がる。
入ってきたのは70代くらいの女性だった。
白のワンピースにグレーがかった深緑のコート。グレーのハイヒールを履いて歩く姿は衰えを感じさせない。
首元の真珠のネックレスが嫌味に感じないのは、その上品さからだろう。
しっかりと化粧はしているが濃すぎず、歳を隠そうとするメイクではない。
歩み寄る郁美に軽く頭を下げながら、真っ白なショートカットの上に乗せたグレーの帽子を、胸の前に下ろした。
「こんにちは」
柔らかい微笑みに、郁美はその完璧に見える出立ちから感じた緊張を解いた。
女性は郁美に勧められた窓際の席に座り、お冷やを持ってきた郁美に、
「ブレンドと、それから、何か甘いものはあるかしら」
と訊いた。
「はい、今日はベイクドチーズケーキと、ブラウニー、いちごのシャルロットをご用意しております」
「それじゃ、シャルロットをいただくわ」
「はい、かしこまりました」

店内の時間がゆっくりと流れていく。
相変わらず絹のような雨は降り続いている。
来栖は洗い物をする郁美の後ろ姿を、見るでもなく眺めながら2杯目のコーヒーを口に運び、女性はケーキを食べ終わって軽く口を拭うと「おいしかった」と呟いたが、その声は洗い物の音にかき消されて郁美の耳には届かなかった。
窓の向こうで古びた車のエンジン音が聞こえ、その音が止むと、ドアのベルを鳴らして入ってきたのは志郎だった。
「あら、いらっしゃい」
すぐに郁美が気がついて声を掛ける。
「こんにちは。あ、来栖さん。いると思った」
そう言いながら、志郎は来栖のいるカウンターの方に歩いていたが、その後ろ姿に女性が「志郎くんね」と声を声を掛けた。
志郎は立ち止まって女性の方を向くと「はい」と少し間の抜けたような声で答えた。
「知り合いか?」
来栖が小声で聞いたが、志郎は思い出せないと言うように軽く首を捻った。
「あなたが覚えていなくても私が知ってるわ。どう?こちらに座らない?」
そう言うと女性は右掌を上にして、目の前の椅子に向けた。
もう一度、視線を合わせてきた志郎に、来栖は無言で頷いた。それを見て、志郎は女性の待つテーブルに向かい、ゆっくりと椅子を引いて、軽く頭を下げてから腰を下ろした。
向かい合ってみると、女性からは上品さの向こうに、絶対的な存在感があった。
しかしそこに威圧感はなく、むしろ懐かしいような安心感を志郎は受け取った。
「あのう、どちらかでお会いしましたか?」
「はい、とも言えるし、いいえとも言えるわね」
女性が真顔でそう答えるので、志郎はからかわれている感じは受けなかった。
「そうですか。なんてお呼びすれば?」
「あら、ごめんなさい。名乗ってなかったわね。ミヤと呼んでください」
ミヤは軽く頭を下げた。それに釣られて志郎も頭を下げた。
「どう?ここでの生活は」
「はい、楽しいです」
その答えに、ミヤはじっと志郎の目を見つめた。その視線から逃れるように志郎は目を逸らし、少し考えてから顔を上げて口を開いた。
「楽しいけど、楽しいだけではないです」
先を促すようにミヤが頷いた。
「ここには魂が疲れた人たちが来ます。その人たちが癒されていくお手伝いができるのは本当に嬉しいです。だけど…」
「だけど?」
「はい、辛いこともあります。どうしてこの人たちはこんなに疲れてしまったんだろうって。その辛さが伝わってきた時、とても辛くなります」
「そうね」
そう言ってミヤはコーヒーカップを手にしたが、飲み干していたことに気がついた。その様子を見て、郁美が「もう一杯いかがですか」と声をかけた。
「ありがとう。そうね、今度は紅茶をお願いできるかしら」
「はい、かしこまりました」
そう言うと、郁美はカウンターの中に入っていった。
「気が効くわね、彼女は」
「はい、いつも郁美さんには助けられています」
「それはお役目で?」
役目というのは、疲れた魂を癒す役目という意味だとすぐに分かったが、
「そうです」
と答えながら、はっきりとその役目を与えられた時のことは覚えていないと志郎は思った。
「辛くてやめたいと思ったことはある?」
「それはないです」
「どうして?」
そう訊かれて、志郎は視線を窓の外に向けて考え出した。絹糸のような雨が窓を濡らしていて、それは水玉になって窓の向こうの紫陽花の色を映している。
「それは多分」
そう言って、志郎はミヤに向き直った。
「魂が喜んでいるからだと思います」
「魂が?」
「はい。ここに来た人の魂が癒される時、僕の魂は喜んでいるんだと思うんです。理屈はわからないけど、そう感じるんです」
志郎がそこまで話した時、郁美がトレイを持ってやってきて、ミヤの前に紅茶のカップを静かに置いた。そして志郎の前にもいつも飲んでいるコーヒーのカップを置き、顔を見て静かに微笑むと下がっていった。
ミヤは紅茶をひと口だけ飲んでカップを置くと、志郎の目を見た。
「わかりました。あなたは随分と成長しているようね」
「成長ですか。ありがとうございます」
志郎は軽く頭を下げてコーヒーカップを口に運んだ。
「志郎くん、これからあなたの家に、ある人が訪ねてきます」
「はい」
「彼女の魂は、疲れてはいないのだけれど、心残りがあるようなの」
「心残りですか」
「ええ。その彼女の願いを叶えてあげて」
「分かりました」
志郎はもうひと口だけコーヒーを飲むと、立ち上がってミヤに頭を下げ、郁美に「ごちそうさま」と言ってから店を出た。
ドアにつけたベルの音だけが店内に残るように響いて、やがて静かになった。その時を待っていたかのように、来栖がカウンターからミヤに質問した。
「失礼ですが、志郎とはどのようなご関係ですか?」
「そうねぇ、私は見守るのが役目。みんなを見守っています。あなたたちもね」
「え?私たちのこともご存知なんですか?」
郁美がキッチンから出てきて質問する。
「ええ、もちろんよ、郁美さん」
来栖も郁美も、それ以上の質問をする言葉を持っていなかった。
「あなたたちには話しても良さそうね」
そのミヤの言葉に、2人は姿勢を正した。
「これから志郎くんのところに来る人は、志郎くんの前世でとても縁があった人なの」
黙って聞いているふたりに、ミヤはこちらに来るようにと、掌で志郎が座っていた椅子を示した。
来栖と郁美は引き寄せられるように立ち上がり、ミヤを囲むように座ると同時に、ミヤは再び話し出した。
「とても縁があった人で、とても悲しいこともあった。もちろん、志郎くんはそうとは気がつかないわ。でもね、魂は反応してしまう。彼がそれに耐えられるか、判断しにきたのよ」
「耐えられると判断したんですね」
「ええ、そうよ」

志郎が家に着くと、ちょうど坂道から桜色の傘をさした女性が上がってくるところだった。
シンプルなツイードのワンピースに紺のカーディガンを羽織ったその女性は、柔らかな笑顔を浮かべ、
「こんにちは。あなたが志郎さん?」
と訊ねた。派手ではないが整った顔立ちで、歳は50代前後に見える。
「はい、あなたがいらっしゃることは聞いていました」
「そうですか。片山沙織です。よろしくお願いします」
沙織はそう挨拶すると、掌を上に向けて空を仰いだ。
「あら、雨が上がったみたい」
釣られて志郎も空を見上げると、灰色の雲が減り、白い雲の隙間から青空が覗いていた。
志郎は玄関に手をかけ「どうぞ」と言って開けようとしたが、沙織は、
「ちょっと待って」
と言って、傘を下ろしてゆっくりと閉じた。
「雨は上がったことだし、一緒に私の家族を探して欲しいの」
「ご家族、ですか?」
「そう、大事な家族」
「その方はどちらに?」
その問いに沙織は困ったようにも、照れたようにも見える笑顔を浮かべた。
「それが、分からないの。ただ、志郎さんのところに行けば分かるって」
「それはどこで?」
「ここに来て、最初の真っ白な部屋で会った人に」
「ご家族のどなたですか?」
「どなたっていうか、実は飼っていた犬なの」
「犬ですか」
志郎は庭の欅の木を見ながら考えた。雨に濡れた欅の葉が、雨上がりの光を浴びて輝いている。
「ごめんなさい、ボクには思い当たる事がなくて」
「そうですか」
「でも、この先の住宅街には犬を飼っている家が何軒かあります。とりあえず行ってみますか?」
志郎は沙織が登ってきた坂道とは逆方向を指で示した。
「そうですね、一緒に行ってもらえる?」
「もちろんです」
そうしてふたりは並んで歩き出した。

坂道は志郎の家から30mほど行くと終わり、あとは高台の住宅地になる。豪邸はないが、古い日本家屋や洋館、比較的新しい現代的な箱のような家まで、多種多様な家が並んでいて、それらの隙間から海が望めた。
「どんな犬ですか?」
「ああ、そうね。話さないと探しようがないわね」
「はい」
「真っ白な柴犬よ。名前はシロ。そのまんまで可笑しいでしょ?私が小学生の時に父が貰ってきたんだけど、なんていう名前にしようかと考えてたら、いつの間にか両親がシロって呼んでたの」
「ハハハ、先につけられちゃってたんですね」
「そうなの。本当はもっと可愛い名前にしようと思ってたんだけど、その時にはもうシロって呼ぶと返事をするようになっちゃってたのよ」
沙織は少し拗ねたような顔をして笑った。志郎にはなぜか、その笑顔が懐かしいように感じられた。
「白い柴犬かぁ。この辺りで見かけた覚えはないなぁ。あ、山田さんの奥さん!」
志郎は知人を見つけて声をかけた。その奥さんはちょうど犬を連れて散歩中だった。
「あら、志郎くん、こんにちは」
「こんにちは」
志郎の後ろで、沙織も頭を下げた。
飼い主が立ち止まったので、奥さんが連れていたラブラドールも立ち止まって腰を下げる。
志郎が探している犬について説明している間、沙織はしゃがんでラブラドールに目線を合わせて「こんにちは」と挨拶した。
「白い柴犬ねぇ。この辺りでは見かけたことないわねぇ」
「そうですか。ありがとうございます」
ふたりは頭を下げて礼を言い、沙織はラブラドールにも手を振って、再び歩き出した。
「やっぱりいないのかしら」
「この住宅街を抜けると広い芝生が広がる公園があります。遠くから犬を連れてくる人も多いので、とりあえずそこまで歩いてみましょう」
「ありがとう」
空はもう半分ちかくが青空になり、夕刻前のまだ強い太陽が顔を覗かせたり隠れたりを繰り返す。
「なんだか懐かしい感じがするわ」
沙織が前を向いたまま話し出す。
「生まれ育った街に似てるのかしら。不思議な感じね」
その不思議な感じは志郎も感じていたが、理由が分からずに少し困惑していた。その原因は沙織にあるように思える。もしかしたら前世で会っていたのか。
「シロはね、とても大人しくて賢かったの。どんなお客さんが来ても吠えることがなかったんだけど、ちゃんと怪しい人には吠えるの。母は良い人か悪い人かはシロに聞けば判るって本気で言ってたわ」
志郎は沙織の話を聞きながら考えていた。沙織が歩くリズムが心地よく、そしてやはり懐かしい。
「シロは私がなんでも話せる唯一の相手だったの。シロがいたから、両親が亡くなっても独りで生きていけた」
「ご両親は早くに亡くなったんですか?」
「そう、私が21歳の時、交通事故でね」
「そうですか」
一軒分の空き地の向こうに、太陽に照らされて輝く海が見えた。遊覧船がその海面に白い軌跡を描いている。
「ごめんなさい、こんな話して」
「いえ、良ければもっと聞かせてください」
話しているうちに、ふたりは海を見下ろす公園に着いていた。
雨上がりの公園の芝生には、10組みほどの家族やカップルなどが思い思いに過ごしていて、そのうちの半分が犬を連れていたが、白い柴犬は見当たらなかった。
ふたりは海に一番近いところにある東屋のベンチに腰をかけた。
「白い柴犬、いなかったですね」
「そうね」
目の前に広がる海を照らす光に、ほんの少し夕暮れの色が混じり出す。
「両親が亡くなってから、私は生まれ育った家でシロと暮らしてた」
沙織が海を見つめたまま続きを語り出した。

大学を卒業して、就職した先の上司と、すぐに不倫関係になってしまったの。バカよね。彼には子供もふたりいて、家庭を壊すはずなかったんだけど、妻とはうまくいっていないという言葉に希望を感じちゃったのよね。
それから5年もそんな関係を続けた。辛かったし、寂しかったけど、その気持ちをずっとシロに聞いてもらってた。
私に悲しいことがあると、すぐに分かるのよね。鼻を鳴らして、すり寄ってきて、あとは体をくっつけてじっとしてるの。そのシロの温かさが心地よくて、ずいぶん気持ちが楽になったこともあった。
彼とは別れないといけないと思ってたんだけど、なかなか別れられなかった。好きだったのもあるけど、寂しくて、また独りになるのが怖かった。彼はただ、そんな私を都合の良い女として利用していただけなのにね。
そして6年目に近くなった頃、妊娠したの。
その時ね、これで別れられるって思った。もうこの子だけで良いって。この子とふたりで生きていくって。
それで彼とは別れた。妊娠していることは言わずにね。
会社も辞めた。両親の保険金が貯金してあったから、金銭的には心配もなかった。家もあるし、シロもいる。心強かった。幸せだったなぁ。
でもね、4ヶ月で流産してしまったの。もう、辛くて辛くて耐えられなかった。
シロはずっと寄り添っていたくれた。でも私の辛さは消えなかった。
イライラして、シロにあたってしまうこともあったわ。そんな時は悲しそうな顔で私を見てた。そして俯いて泣いている私のとなりにまたそっと寄ってきて、体をつけて座るの。諦めずに、怒らずに、何度も何度も。
私、あの頃、うつ病になっていたんだと思う。なんとか最低限の食事だけを用意して生き延びてた。
でも、もう限界だった。楽になりたかった。それで睡眠薬を大量に飲んだの。

「あれ?」
そこまで聞いて、志郎は自分の目から大粒の涙が流れていることに気がついた。
それに気がつくと、今度は胸の奥から大量の悲しみが襲ってきて、それは嗚咽となって溢れ出た。
「どうしたの?志郎さん」
海を見つめたまま話していた沙織が、志郎の異変に気がついた。
「ごめんなさい、そんなに悲しんでくれるなんて」
慌てて謝ったが、志郎の涙は止まらなかった。
沙織は少し離れて座っていた志郎に体を寄せて、背中に手を回し、その手をゆっくりと動かした。
「でも大丈夫なの、大丈夫だったの。そこでは死ななかったの、私。続き、聞いてもらえる?」

雨が上がり、森の中から小鳥の泣き声が届く。ミヤと栗栖と郁美が囲むテーブルに、濡れた窓ガラスを通して太陽の光がまだら模様になって届く。
「志郎くんの前世はね、犬なのよ」
ミヤが言った。
「犬ですか」
「そう、本当はまた犬に生まれ変わる予定だったの。でも、彼は人間に生まれ変わることを望んだ。今度は人間に生まれ変わって、悲しい思いをしている人を救いたいって」
栗栖と郁美はミヤの顔を見つめたまま、黙って話の続きを待った。
「でも人を救いたいという気持ちが強いとどうなると思いますか?」
ミヤは来栖に質問した。
「すぐに疲れて、傷ついて、潰れてしまう、ですか?」
「そう、その通りよ。人を救いたいという気持ちは大事。今の人間の世界に一番必要なことかもしれない。だから希望通り人間に生まれ変わらせてあげたい。でも彼の場合は純粋すぎる。私たちはそんな彼の魂を潰したくなかったの」
「それで今のお役目を?」
「そう。人間の世界に生まれる前に、ここでいろんな人たちに会って、考えて、感じて、経験して欲しい。そして本当の強さと優しさを育てて欲しい」
「その強さと優しさが育った時、志郎くんは人間に生まれ変わるんですか?」
郁美がミヤの方に少し身を乗り出して訊いた。
「そうね、そうなると思うわ」

志郎は沙織に背中を撫でられながら、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。嗚咽は止まり、沙織から差し出された犬の刺繍が入ったハンカチで涙を拭った。
「ありがとう、志郎さん。志郎さんが話しやすいからかしら、なんでも話せちゃうの」
「続きを聞かせてもらえますか?」
沙織は志郎の目を見つめたまま頷き、今度は海の方は見ず、志郎の方を向いたまま話し出した。

夜中だったし、一人暮らしだから、本当だったら死ぬまで発見されなかったと思うんだけど、普段めったに吠えないシロがずっと吠え続けてたんですって。
あまりに吠え続けるものだから、隣の奥さんがおかしいと思って警察を呼んだの。それで発見されて、救急車で運ばれて一命は取り止めた。でも一週間以上昏睡状態だったみたい。
私がいない間、救助に来た消防士がシロを預かってくれたんだけど、私が昏睡状態の間に死んでしまったの。もう16歳だったから寿命よね。急に倒れて、苦しまずにすぐに亡くなったって。私が目覚めたのを聞いて、その消防士が報告しにきてくれた。申し訳ありませんでしたって頭を下げて。
私、何も考えずに言ってしまったの。良いんです、私ももうすぐシロのところに行きますって。そしたらダメだって。怒っているわけじゃないけど、真剣な顔で私の肩を持って、ダメです!って。
あなたはシロのおかげで助かったんです。今、死んでしまったら、シロが悲しみます。シロのためにも、あなたは生きるべきですって。
それからその人、何度もお見舞いに来てくれてね。結局、私、その人と結婚することになったのよ。
それから3年後に子供が生まれた。女の子よ。嬉しかったぁ。
彼も申し分ない夫でね、優しくて、頼り甲斐があって。そして何より、私のことを本当に愛してくれた。
それからの暮らしは幸せだった。幸せすぎて恐くなるくらい。いつも幸せは逃げていくものだったから。でも大丈夫だった。
そうやってすっかり幸せな生活に慣れていたら癌だって。もう手遅れだって。
ショックを受けるというより、ああ、そうだよねって思っちゃった。でもありがとうございましたって思った。誰にか分からないけど。幸せな生活をありがとうございましたって。一度死んでいるのに、自分で死ぬことを選んだのに、ここまで幸せに生きることができた。
幸い、娘は大学を卒業して就職したから子育ても終わったし、家事も一通り教え込んだから大丈夫だと思った。
心配だったのは夫の方かな。あれだけ愛してくれたから、私がいなくなったらどうなるんだろうって。
でもね、私が死ぬ間際に娘が言ったの。お父さんのことは任せてって。
それでもう、安心してこっちの世界に来られた。

志郎は再び涙を流していた。
しかしそれは、さっきまでの悲しい涙ではなく、安堵の涙だった。もう一度、涙を拭う志郎の背中を撫でながら、沙織は「ありがとう、志郎さん」と言って話を続けた。
「でもね、心残りはシロのこと。あの子は私があの時に死んだと思っているはず。あれから幸せな人生を送ることができたなんて知らないはず」
「だから、会ってそれを伝えたかったんですね?」
「そうなの。それだけが心残りだったのよ」
「それじゃ、また明日も探しに行きましょう」
そう言う志郎を沙織はじっと見つめると、背中に回した方ではない腕も志郎の背中に回し、ギュッと抱きしめた。
「ありがとう、志郎さん。でももう大丈夫。どこかでシロが聞いていてくれたような気がする。会えなくても分かるの」
沙織の香りに包まれて、志郎は安らぎを感じて目を閉じた。
そしてもう一度目を開いた時、もうそこに沙織の姿はなかった。

「来栖さん、郁美さん、志郎くんをよろしくね」
来栖と郁美は黙って、しかし力強く頷いた。
「志郎くんは、そのうち自分の前世を思い出す時が来るでしょう。そしてそれはおふたりも同じ」
「俺たちも、ですか?」
「そう、でも恐れなくて良いの」
そう言うとミヤは立ち上がり、栗栖と郁美の背後に回ると、ふたりの肩に手を置いた。
「思い出すのは悲しいことかもしれないわ。でも大丈夫よ、ふたりともそれを乗り越えられる。それまでは、お役目をお願いね」
ミヤはツリーハンガーにかけた帽子を頭に乗せ、コートを手にすると、
「では、またね。ごきげんよう」
と言って店を出て行った。
ふたりは慌てて立ち上がり、後を追ってドアを開けたが、外にもうミヤの姿はなかった。
それでも郁美は頭を下げて、大きな声で「ありがとうございました」と礼を言った。その横で来栖も深々と頭を下げた。

海を見下ろす公園には夕暮れが迫っていて、東屋の下はもう暗くなっていた。
志郎は沙織の残り香に包まれたまま泣いていた。
それは悲しさ、寂しさ、嬉しさ、安堵感が混じった複雑な涙だった。
その涙を沙織が置いて行ったハンカチで拭い、両手で挟むように自らの頬を叩くと立ち上がって、大きく深呼吸をした。
強い眼差しで海を見つめたまま、志郎は自分に確認するように頷くと、もうここにはいない沙織に「ありがとう」と礼を言った。
きっとまた会えるような気がした。
水平線の近くで、漁火が燈り始めた。

つづくよ、ここまできたら


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