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軸足が過去にある人は新しい世界に入れない

自分がまだ19〜23歳ぐらいの若い頃、デザインや料理の世界の入り口でウロウロしていた頃・・・

業界の現役の先達が、ワザワザ私を呑みに連れて行ってくれて、若輩者の私、世間になんの貢献もしていない役立たずの私に、自分の仕事について熱く語ってくれたり、アドバイスしてくれたりなど、ありがたい経験があると「スゴイ世界があるんだな、大人なのにガチで創作に燃えている人はスゴイな!」と私も燃えました。よし、オレもやるぞっ!!と。

しかし、家に帰って(若い当時は実家)両親の顔を観たり、その後友達と会ったりしてしまうと、アッサリと「元の自分」に戻ってしまい「ふつーの日常」に戻ってしまうのです。(親や友達が悪いという意味ではありませんよ。日常に戻される、という意味)

「そんな特殊なことをやろうとしても、才能のないオマエなんてどうせ失敗するんだから普通の生活が出来るようにしろよ。普通に勤め人になって安定したことをした方が良い。やりたいことがあるなら趣味でやれば良いんだよ」

という、ささやき声が自分の内部から聴こえて来ますし、他所の人たちからもそう言われます。

私が何かやろうとしても「何そんなに真剣にやってんだよwwどうせ失敗するってwww」なんてバカにされ、あらゆる嘲笑を受けます。人は、こんなにも嘲笑することに関して創作性を発揮するんだなあ、と変な感心をしてしまったぐらいに、あらゆる嘲笑を受けましたねえ・・・笑

気がつくと「せっかく熱い先達からもらった熱」は冷め「何か夢みている自分、何かをやろうとしている、過程の自分であれば傷つかない」という設定の中に生きるモラトリアムボーイに・・・そんな日々送っていると、耳年増になり、他人への批判や評論だけ達者になって行く。

本当は、問題はやるかやらないかだけであって、やろうとしている自分というものは全く無価値なんですよね。しかし、そこを観ると心が痛いので、観ないようにする・・・同じようなモラトリアム仲間でつるむようになる。

「具体的には何もしていないが、何かやろうとしている自分」と「自分と同じような具体的には何も踏み出していない知り合い達」そして「既に現役ではない人間の昔話」・・・そのなかにいると楽しい。傷つかないから。だからそういう所ばかりに顔を出す。そこから出ないようになる。そういう場にいて、真剣にやっている人たちを上から批評するようになる。

・・・そういう所にいると「アっという間にトシをとってしまう」わけで、そういう人たちは世の中に掃いて捨てるほどいます。

若い頃の私もその一人だったわけです。

そこにいてはダメだと自省し、例えるなら「自分から出た垢だらけのぬるま湯が入った浴槽」から自ら抜け出し、体を石鹸で良く洗って来た人だけが、新しい世界へ行けるんですね。

その「自分から出た垢で汚れたぬるま湯が溜まった浴槽」に浸かっている人たちに「その不潔なところから出てきた方が良いですよ」と説いても彼らにとっては、そこは非常に居心地の良い場所ですから、あらゆる言い訳をしてそこに居続けようとします。

例えば私のところに制作で食って行きたいと訪ねて来る人が、そういう汚れたぬるま湯の住人だった場合、彼らは頭ではここから出なければならないと分かってはいるのです。だから話を聴きには来るのです。しかし恐怖で出られない。だから、上半身だけこちらに乗り出して、下半身はどっぷりとその汚れたぬるま湯につかったままでいます。その乗り出した上半身には垢がいっぱい付いています・・・そういう人は弟子入りをお断りしています。

あるいは、どこかの仕事の現場で精神的な傷を負い、その癒やしのために手作りの現場に流れて来るパターンも大変多いです。手作りの世界なら、自分の居場所があるはずだ、手作りの世界ならのんびりしていそうだから、自分でもなんとかなるだろう、あるいは「オレ様なら楽勝〜!」と。

が、残念ながら、それは妄想です。手作りの世界で生活するのは大変に大変に厳しいのです。

そういうわけで

「軸足が過去にある人はウチには入れません」

ということになります。

「自分の垢で汚れたぬるま湯が溜まった浴槽」から出たくない人を、強制的に出すと、事態はもっと悪くなるので(垢の浴槽は、彼らに適合した居場所なのだから、その場から出してしまうと病気になってしまう)私が垢の浴槽の住人だとみなした場合は、こちらからは何も言いません。

【その澱んだ場所から出たければ、自分自身でその垢の浴槽から出て、体を洗い、浴室から出て来る・・・そこまでは自力でやらなければならないのです】

どうせ「その浴槽」から他力で出されても、また戻ってしまうからです。

本気で出たいと思った時に、初めて自分がどこかへ向かうにあたっての、適切な質問が生まれます。それ以外の質問や試みは「全てやっているフリ」で的外れになり、時間の無駄です。

しかし、そういうタイプの無駄は「何かアクションを起こしている自分を味わえる」ので麻薬なのです。成果が出なければ、ずっと垢の浴槽にいられます。むしろ成果が出てしまうと、垢の浴槽から出なければならなくなる、だから彼らは無駄が欲しいのです。そして間違っているのは理解の無い世間であり、自分は清らかだと垢の浴槽で考えるのです。

自らそこから出る、というところまでは自分自身でやらなければならないのです。

しかし、自ら出てくる人はほんの僅かです。

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