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大人の修学旅行・広島〜【祖父の被爆体験記】

大人の修学旅行に行ってきました。私のルーツの旅でもあります。
私の母方の祖父は広島で被爆しており、私は被爆3世である話を以前に書いたことがあります。

祖父の被爆体験記が広島平和記念公園に寄贈されていることは母から聞いて知っていましたが、私自身は小学校の修学旅行以来、一度も原爆ドームを訪れたことはありませんでした。

大阪在住の被爆2世の母たち(母の姉・母の兄)も高齢となり、元気で動けるうちにきょうだい3人で一緒に広島に行き、実際の体験記がどんな風に閲覧できる状態なのかを見てみたいと話しているとのこと。

それを聞き、まず先駆けて私と夫で旅行計画を立て、先日行ってきました。いま私がいちばん行動力もあって、身軽に動ける立場なので。
私の夫は、自分の親戚などで身近に原爆を体験した人もおらず、直接自分とは関係のない歴史的な出来事だと思っていたけど、こうして私とともに人生を歩んでいる時点で今では自分にも深く関係があると感じたようで、一緒に広島を訪れることに賛成してくれました。

広島に原爆が落ちなければ、私はこの世に
存在していなかったのだから。



①車で広島へ〜長距離ドライブの旅

小学生6年生以来の原爆ドーム

車を軽バンから全車速追従機能(ACC)付きのハイブリッドに買い替えてから、行きたいと思っている場所のひとつが広島でした。
長距離移動を快適に疲れにくく走るためという目的で買い替えたので。実燃費はどれぐらいなのかも確かめたかったし。

いざ広島の宿を予約し、土曜の朝からレッツ・長距離ドライブ!

途中、大規模な事故渋滞に巻き込まれ、休憩(運転交代)や昼食をはさむと大阪から5時間ほどかかって広島平和記念公園へ到着。渋滞さえ抜ければ、高速道路巡行はさすがオートクルーズ、めっちゃ楽でした。

しかし到着してみると、平和公園には一般駐車場がないんですよね〜。(←下調べ不足が露呈。)
大型バス専用はあるものの、普通車は近くのパーキングを探さねばならず、早速🅿️難民になりました。市街地をぐるぐる回って探すことに。
だって原爆ドームって、めっちゃ都会の街中にあるんだもの。路面電車という、馴染みのない交通ルールにも戸惑う。

この時点ですでに予定より大幅に遅れていたのに、さらに平和記念資料館にはチケットを買い求める人たちの長蛇の行列が‥‥。
たった200円とは言え、入場券を買わなければ中には入れない。並ぶのに、ここでまた15分ほどのロスタイム。世間は春休みだし土日はやはり混むのね。

これが平和記念資料館のチケット。大人200円。
並んでいる人の8割ぐらいが外国人観光客でした。

やっとこさ資料館に入館し、真っ先に総合インフォーメーションへ。
「私の祖父の被爆体験記がここに寄贈されているとのことで来たのですが、どこで見られますか?」
と聞いてみました。すると、
「ここ資料館の常設展示は主に【物】となっており、おそらくお祖父様の手記ですと、追悼祈念館のほうへ移されたかと思います。2002年に原爆死没者追悼祈念館が開設され、【物】と【人】とで建物が分けられましたので。」とな。

へぇ〜〜!ここじゃなかった!
ガラス張りの四角い建物が資料館。追悼祈念館は同じ公園敷地内の、丸い建物。↓↓

こちらが、広島原爆死没者追悼平和祈念館。国立。

せっかく200円払って入ったので、資料館も外国人観光客の間を縫うように足早に見学し、次にすぐ近くの追悼祈念館へ向かう。

こちらの追悼祈念館は無料で入れます
ここが入口。地下に続きます。

ここの地下に被爆者体験記閲覧室というのがあって、パソコンに祖父の名前で検索をかけると出てきました。


②ようやく、祖父の被爆体験記に出会える

祖父の名前検索で出てきたのが、こちら↓↓

これが私のおじいちゃん。母のお父さん。
被爆時年齢は33歳。爆心地から4㎞ほど離れた宇品にて被爆。
しかし、85歳まで長生きしました。

おじいちゃん!! やっと会えた!

この写真はまさに、私の記憶に残っている祖父の顔。お正月には、いつもTVで箱根駅伝を観ていたなぁ。
優しくて常にニコニコしていた印象。旅が好きで、色んなところに旅行にいってた。私が大学生の頃、85歳で亡くなりました。

「俺は被爆しても、40年間煙草吸っても、80歳を超えて生きてる。喫煙しなけりゃ120歳ぐらいまで生きられた。」とか言うてたらしい。笑

おじいちゃんの若い頃と、当時の奥さん。
この女性が、私の伯母さん(母の姉)の生みの親。
亡くなられたあと祖母と再婚し、伯父と母が産まれた。
2枚の夫婦写真が閲覧できるようになっていました。
当時の奥さんは、26歳で被爆。母の姉(私の伯母)を
産み、被爆の影響で出産後すぐ27歳で亡くなりました。

私のおばちゃん(伯母)と顔がそっくり。
表情も雰囲気も、今の伯母にとても似ています。伯母と母は腹違いの姉妹だから、全然似てないけど。

これが、祖父直筆の手記原稿。
20ページほどあります。

私の覚え違いで、祖父の被爆場所は通勤電車内ではなく出勤地の宇品海岸・船舶司令部でした。爆心地からは4kmほど離れた場所。
祖父が部隊の経理部下士官(曹長)だったのも、この時初めて知りました。記載も軍人・軍属になっている。

手記には被爆直後の広島市内の状況も生々しく描写されていて、読んでいて胸が詰まり、苦しくなる。
自宅がどこにあったかも分からないほどの焼け野原で、妻の生存を一度は絶望視したはず。けれど、妻も運良く生きていて再会することができた。

奥さんは爆心地(市内昭和町)の自宅近くで被爆、大火傷を負いながらも娘を出産し、出産後すぐ27歳の若さで亡くなられた。その時祖父は、いったいどんな気持ちだったんだろう。想像すらできない。
そしてもう、その気持ちを聞くこともできない。


③考えさせられることが多すぎた

私は私で生まれてきて良かったと思っているけれど、日本に原爆が落ちて良かったとは決して思えないし、思うはずもない。それはまったく次元の違う話。

でも、祖父が壮絶な経験をしながらも生き残ってくれたお陰で、私の母が生まれ、私も今ここに存在している。うーん…なんて言えばいいか分からない、複雑すぎる気持ち。
私のおじいちゃんとおばあちゃんには、感謝しかない。後妻となった祖母は、3人の子どもを分け隔てなく育ててくれたと母は言う。
長女には別の産みの母がいることを打ち明けたのは、成人してからだったそうです。

広島は桜が綺麗でした


広島で祖父の被爆体験記を読む、というのは私の「今年やりたいこと」のバケットリストに入れていたので、ひとつチェック☑️で消すことができ、よかったと思います。

私が今、保育士ではなく小中学校の教員などであれば、この手記を平和教育の授業などで使ったり、次の世代に伝えたりもできただろうけど。5歳児に話すにしては内容が深すぎて、ちょっとまだ早いかなぁ。
それでも、現在も海外からあんなにたくさんの人々が広島を訪れて、たくさんの人の目に触れられるように被爆体験記が残されていることは、意味のあることだと思いました。

私の語彙力が乏しくありきたりな表現しか思いつかないけれど、【平和】がどれだけ大切かを改めて知る機会になったし、また、平和を願う気持ちも強くなりました。

このあと、江田島のホテルに移動して宿泊し、たこしゃぶ・タコづくし料理を食べたり、翌日は海岸で焚き火を楽しんだりしたのですが、長くなってしまうので(充分なげぇよ)続きはまた次回。

つづく。

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