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順位や勝敗をつけない運動会って?

スポーツ指導の仕事を12年間したのち、保育士に転職後10年になります yukichi. です。
先日、勤務先の園の運動会が無事に終わりました。
めっっちゃ疲れたけど、ほっとした~!

私自身は、ゆとりの【ゆ】の字もなかった、ザ・昭和世代です。
自分が小学校の頃の運動会といえば、徒競走ではゴールに1~6位までの旗が並べられ、走り終わったら着順でその旗の後ろに並んでおりました。

私は、ありがたいことに苦労せずとも幼い頃から足は速かったので、いつも1着だったし、リレーでも花のアンカー。運動会は1年間で最も自分が輝ける舞台であり、誇らしい場所でした。
いちばん好きな年行事といってよいほど、運動会は毎年楽しみでわくわくするイベントでした。

しかし、いつからか徒競走に順位をつけなくなった、などと聞くじゃありませんか。着順の旗などもうないの?仲良く手を繋いでみんなでゴールだと?
へ~~。時代は変わったね~、と思わざるを得ません。

そもそもこういうかけっこすら行わない
運動会もあるらしい。現在もそうなの?

競争することを目的とせず、一生懸命取り組む姿を見てもらうための場としての運動会。その意義は? あなたは、賛成派?反対派?
自分なりに考えてみたので、あくまで個人的な意見ですが、書いてみます。


①順位をつけない徒競走、勝敗をつけない運動会って?

まず【賛成派】の意見をみてみましょう。
・大勢の観客の前で、ビリで走る足の遅い子が恥をかかなくて済む。
・着順という結果にこだわらず、全力で走り切った頑張りを褒めればそれでいい。
・努力してきた過程、積み重ねてきたこと、友だちと力を合わせている姿を保護者に見てもらえればいい。
・何位という旗の後ろに並ばせなくても、誰が速かったかは見れば分かる。

では、【反対派】の意見は?
・人生は競争社会なのに、学校でそれを避けるのはおかしい。平和主義ではなく事勿れ主義だ。
・勝敗をつけないなら、そもそもやる意味がない。
・勉強は苦手でも運動は得意な子の、輝ける場所を奪ってしまう。
・テストに点数や成績があるように、スポーツに勝敗があるのは当然。スポーツそのものの否定である。

などなど。
こうやって聞くと、双方どちらの意見も納得できるような気がします。どこに視点を当てるか・何に目的を置くか、の違いですよね。

かけっこが得意な人に、足の遅い子の気持ちなんて分かるもんかと言う人もいるでしょう。でも私の場合なら、音痴で歌が下手なので、大勢の前で1人ずつソロで歌えとなったらそりゃあ嫌だしやりたくないし恥ずかしい。だから苦手なことを人前でしなければならない憂鬱さは想像できます。

速い子・遅い子双方の気持ちを考えると、どうなる?
負ける悔しさや勝つ喜びを感じる機会としては、どう?

それでも、私個人としては、スポーツの素晴らしさを伝えたい・身体を動かすことの楽しさや頑張ることのおもしろさを知ってほしいと願っている側の大人なので、順位や勝敗も必要だと考えています。

結果がすべてだとも、負けたら無意味な努力だったとも、思わない。スポーツに限ったことではないけれど、目指す勝利や順位がないと、目標も立てられないし、努力する意欲が沸かないのではないかと思うのです。

世界一有名なスポーツ大会・オリンピックは平和の祭典でもあります。
異国同士の選手が決められたルールの中で全力を出して闘う、でも終われば握手してハグして健闘を讃え合い、審判や運営に礼をして、観客の応援にも応える。
一緒に競う中にも友情が芽生え、国も人種も文化の違いも越えて、友人になれる。

スポーツが持つ魅力を見せてくれるオリンピック。
見ている側が感動する理由が、ちゃんとある。

勝敗や順位のない運動会で、学校でこれらを学ばず育った子どもたちも、将来オリンピックを目指すのでしょうか。そんな教育をしてきた大人が、あとになってメダル獲得数が少なくなったとか、日本は弱くなったとか、文句を言うことはないのでしょうか。

②個人種目のひとつとして徒競走を考える

私は、運動会には団体種目もあって個人種目もあって、徒競走はその中の個人種目のひとつに過ぎない、と考えればいいと思います。

つまり、玉入れや綱引き・リレーなどチームで戦うものは、必ず勝敗がつきますよね。団体なら運動が苦手な子にも勝てるチャンスがあるし、力を合わせることや作戦を立てる等の教育的意義ももちろんある。
実力のみで勝敗が決しないものも1種目入れてみては。例えば運が左右するようなものも。

あとは、競争を目的としない、ダンスや演技・パラバルーン等もあります。
いくつかの種目のうちのひとつの、個人種目としての徒競走なら、着順なんてあってもなくても比重はそんなに大きくない。勝てたのもあったし、負けたのもあった。それでいいんじゃない?
それなら単純に個人の走力だけで勝負が決まる種目としてのかけっこだって、あっていい。足の速い子の見せ場があったっていいと思う。

時間的な制限があって、そんなに何種目もできないのかもしれませんが。私は学校教育には詳しくないので、そのへんの事情はあまり分かっておりません。すみません。

リレーは年長児クラスでもやります。
負けると泣いて悔しがる姿も、毎年あるあるです。

③ねらいをハッキリ伝えることが大事

運動会では、何を目的として、何のねらいでこの種目をやるのか、きっとアナウンスされているはずです。保護者の方はちゃんとそれを聞いていますか?

「みんなで気持ちを合わせて大きく膨らませることが出来るようになりました、パラバルーンです。」
「かけ声も振り付けも子どもたちで考えました、ソーラン節です。」
のように。ちゃんと取り組み過程を放送で説明していると思います。

勝敗や順位をつけないにしても、どんな教育的意義があってこれを行なってきたかをきちんと伝えれば、保護者からの反対意見や苦情なく、納得して見てもらえるのではないかしら?
【勝ち負けだけが全てではない】という考え方も、体育会系スポ根の私にだって理解できる。

みんながんばった、全員素晴らしかった、1年でこんなに成長した、と最後に認め合える行事となれば結果オーライだとすれば、【負けはダメなことじゃない】というのを大事にすればいいと思うのです。競争を排除するのではなく。
人は【負けから多くを学ぶもの】です。悔しい思いをする経験が、努力の大切さや頑張る楽しさを知るきっかけになるから。

どうすれば次は勝てるか、課題を見つけ、
考えて練習することで、上達し強くなっていく。

時代とともに教育も変わりゆくもの。ひとつの年行事でさえ、考えさせられることはたくさんある。

子ども目線と親目線の両方から考えなければならない先生方や教員の皆様、いつも本当にお疲れ様です。
親目線で見ている方も、ほんの少しでいいから先生目線でも見てもらえたらなぁ、なんて職業柄思ってしまう私でした。


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