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書くことについて書くこと

僕は昔から書くことが苦手だった。
学校の課題の読書感想文、400字詰めの原稿用紙2枚を文字で埋めるのも、
いっぱいいっぱいだった。

浪人して、自分の人生について深く考えるようになって、
たくさんの本を貪るように、読むようになった。
写経のように、自分にとって大切に思える文章をノートに書き写したり、
その日に考えたとりとめのないことを、書きなぐりまくっていた。

誰かに見せるために書くわけでもなく、
大々的にまとめる目的もなかった。
とにかく、書くために書いていた。書くことによって、他の余計なことを考えないようにするためでもあったのかもしれない。

ふと気がつくと、自分の思いを文章にまとめることが、
全くの苦ではなくなっていた。むしろ、考えるために書くことが、楽しくすら思えるようになっていた。
自分自身をコントロールすることがうまく出来なくて、何かとむしゃくしゃしているのが思春期だとしたら、書くことによって、不安定な自分自身をちょっとだけうまく操縦出来ているような実感があったのだと思う。

カメラと出会い、写真を撮るようになり、それを生きがいに感じるようになり、生業にしようと覚悟を決めて、色々あって、今に至る。
その中で、撮ることによって自分らしさを表現したり、自分ならではを表明したり、見てていいなって思ったものを素直に撮って、ありのままを伝えられるように、徐々になっていって、とても生き心地がよくなった。
すると、僕は書くことから離れるようになっていった。
書くよりも撮るほうが、一瞬で多くのことを伝えられるような気がしていたからだと思う。
同時に写真は、全部は伝えられない。見るものの想像力に委ねられる。その相互作用感が、コミュニケーションであって、好きだ。

書くことは、書くことによって言葉がノートに、パソコンの画面に定着して、さも目の前に存在するような気がしてしまう。もやもやした心の中のものを言語化できた時、「分かった!」気になる。分かるとは、分けることだと、昔何かの本で読んだ。世界を分かっていく(分けていく)ことは、とても心地が良い。いわゆる世界の解像度があがるというやつだ。
だけど、書いて分かった気になること、カタルシスを感じられる気がすることが、本当にいいことなのかどうか、悩む自分もいた。

そんなこんなで、改めて今の僕は思う。書くことでしか、前に進めないのだと。
撮る前に、何をどう撮ろうかを考える。考えることは、書くことによって整理されていく。
世界を分けていく以前に、自分の頭の中を分けていって、分かりやすくしていく。
考えすぎてこんがらがった紐を、少しずつ解いていくような地道な作業を、書くことによって僕たちはしている。

要するに、自己表現の原点回帰のようなもので、元々書きまくって育てていった自分を、改めて育てていくために、僕は昔みたいに書き続けることにした。

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