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予感のままの 今でいいんじゃない

第7週 5月19日〜5月28日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、感覚めいたものに予感がかくれています。
自己分析も大切ですが、ホントの自分に回帰する勇気も持ちたいものです。

では、読み解いてまいります。


G. SIEBENTE WOCHE (19. MAI – 28. MAI [1912].

7.
Mein Selbst es drohet zu entfliehen
Vom Weltenlichte mächtig angezogen
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein
Ersetze mir des Denkens Macht
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912


  私は私を免れようとしている
  俗識の偽光にひきよせられ

  さぁ私の予感にしたがい
  導かれた一歩を踏み出せ 
  自らの思考を認識の外へいざない
  感覚めいたものに
  心をほどき輝きに身を任せよ

  


自己分析


もう10年以上前の話になります。
仕事の途中でオフィス街のスタバに入り、空席を確認し、カフェラテをたのみ窓際の席に着席し、ほっと一息入れようかという時でした。

何やら後ろからブツブツと。
もちろん、そのようなことは、無視して自分の世界に閉じこもろうとしていたのですが…。

もう、あまりにブツブツ言っているので、気になってしょうがありません…
一瞬、気づかれないように振りかえってみると…

いかにも就職活動中であろうリクルートスーツに身を固めた女子が、A3位のボードを机にガバッと広げ、念仏のようにブツブツ言っているのです。おそらく、面接の予行演習らしきコトをしているのでした。

ボードには丸で囲まれた『私』と書かれた中心から、彼女がいろいろと体験してきたことや、性格やらが書き出されていて、とりどりの厳選された言葉がカラフルに埋め尽くされているようでした。もう、ボードには視線を落とさずに眼をつぶってブツブツと言い続けているのでした。

アッこれが今流行の自己分析ってやつだな…とピンきました。

そしてこれまた、隣に座ったリクルートスーツに身を固め、いかにも就職活動中であろう女子が、B5版ぐらいのノートをおもむろに鞄の中から取り出しテーブルの上にスススッと置きました。横目で覗き見をすると、そのノートの表紙には『自己分析ノート』とペンで書かれていました…。

ワッまた自己分析だ。

みんな若いのに大変だなぁと思いつつ。
わたしもきちんと自己分析とかしといた方がいいのかな?と
思い立ったのでありました。

そして、その当時に出会ったのが「ビジネスモデルYOU」という本です。
自分は、どんな人でどんなリソースを持っているのか?そして、誰の「ため」になりたいのか?誰と何をするのか?
最終的に、自分の与えられる価値とは何なのだろうか?を掘り下げてゆくための指南書なのです。

わたしも一時、講師の仕事に悩んでいました…。人を指導することが苦手なのに、講師なんてまったく向いていないと感じていたのです。でも、「指導する」と「教える」は、別のことなのだということを、この本で学びました。

指導ではなく、教えればいいんだ!というのは、意味的にはちょっとした違いなのですけど、行動においての大きな違いを発見できたのです。それ以降、その人らしさを気づかせ、持ち味を教えられれば良いのだと、自分の教育者としての軸が明確になったことがありました。

たとえば、妻としてとか、旦那としてとか、趣味人としてとか。仕事をする自分だけに限定せずに、自分の中にあるいくつかの人格で分析してみます。すると、ああ、自分ってこのような人だったんだなと再認識できることがあるかもしれませんよ。

“わたしとはなんぞや”を真剣に問いだすと、心を病みそうですが、このような本を読みながら自分探しをしてみたらオモシロいかもしれませんね。

「ホントの自分」って何なんでしょうね…。
あなたは、何年かに一度でもセルフチェックする機会を持っていますか?

で!
ここまで書いていて何なのですが…、
自己分析には危険性も感じます。

本当に、誰かの「ため」にならないといけないのか?とか、社会や人の役に立たないといけないのか?という疑問を常にいだいていないと、隷属性のある間違った道に進んでしまう可能性がある。ということを忘れないでいてほしいのです。

何かに貢献している姿は、いっけん美しくキラキラしてみえるのですが、
それは、あなたがすべきことなのですか?

他に、やるべきことがあって生まれてきたのではないのですか?

自分の常識を疑い、自分が盲信してしまっていないかを
内省してみてください。

「ホントの自分」は、いったい何を表現する人だったのでしょう…?

そして、あなたは、あなたの人生にきちんと役立っているかどうか?を
自問してみてくださいませ。




感覚めいたもの


感覚めいたもの感覚めいたものに心をほどき身を任せてみてください。

脳ではなく各器官の記憶、身体に潜む原子的感覚、全身の細胞一つひとつに意識を向けてみましょう。

「いまここ」に注意を向け、受け入れることに焦点を当て、過去や未来の記憶や心配や思考から離れ、目の前の経験や感覚に集中するしてみるのです。

日常生活の中で、食事をする際に、食べ物の味や香り、食感に意識を向けることで、食事の経験をより豊かにできたり、歩くときには、足の接地感や風の感触など、身体の感覚に注意を払いながら歩くことなどもそのひとつです。いわゆるマインドフルネスを大切にしてくださいというメッセージなのでしょう。

心を落ち着かせて瞑想をしてみるのもよいと思いますよ。
というか、ぜひ瞑想を生活の中にとりいれてみてくださいませ。
もう、だいぶ一般化してきましたよね?

わたしも、瞑想やジャーナリングをしていると、自分では気づいていない自分のことを再認識したり、記憶がフラッシュバックしてきたりして、ああ、そうだった!という感覚、気持ちの安らぎが多々あります。

あなたも、ぜひ、チャレンジしてみてくださいね。
自分だけの「特別な時間」を見つけてみてください。


2024年5月 光とエゴノキ


予感

予感とは、浄化された感情であり、未来をみすえる能力とのことです。大いなるものが、予感としてインスピレーションをメッセージとして、浄化された感情で受けとらなければならないのでしょう。

無意識から感覚する物質化された世界に歓喜を送れるかどうか?

シュタイナーのこよみを生活の一部にとりこみ、自然観察をするときに、今日は、どんな自然に出会えるのだろうか?という予感が大切なのだと思うのです。今週であれば…。

春の日差しの中、自然界で何が起きているのか?

そのようなことが解ったところで、社会や人のためになるのかと思われる方もいらっしゃると思います。あなたが、その光景に何か歓喜を感じたのであれば、あなたの役にたっているのです。

自分の人生の意味を考えるのに、なかなか答えをみいだせませんが
深淵なる、時の、すごし方なのではないでしょうか?

「予感」という詞(コトバ)を用いることで初めて見えてくる世界。
それはどれだけ豊かな感情、感覚を持てるかに関わるのかもしれません。そして、この能力を試し、一日一日をすごすことが、人生の価値を深くみつめるための一歩なのではないでしょうか。





シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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