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47都道府県 ―数字に隠された知られざる意味―

この文章は、文章生成AI「AIのべりすと」の力を借りて2022年の4月頃に執筆したもので、AIのべりすと文学賞に応募したもののあえなく撃沈した作品です。
先日GoogleDriveを整理していた際に発見したので、手直しを加え、供養も兼ねてnoteに投稿します。

ストーリーは主にAIが考えているため、突拍子もない展開になっている箇所もありますが、訳の分からなさには目を瞑って「AIっぽいな」としみじみしていただけると幸いです。





47都道府県
―数字に隠された知られざる意味―

斎藤明



まえがき

あなたは、初対面の人と初めて話す時、何と言って話し始めるだろうか。

「本日は良い天気ですね」? あまりにもナンセンスだ。
「儲かりまっか」? 関西人でも言わないだろう。

と、こんなことは、わざわざ言われなくとも誰もが分かりきっている。
だが、本当に恐ろしいのは、本気で正しいと思っていたことが実は間違っていたという場合である。

十中八九、いや九分九厘、あなたは「ご趣味は何ですか?」と言って話し始めるだろう。
初対面の人と初めに趣味の話をするという行為は、もはや鉄板ですらである。あなたに限らず、こういう人は多いのではないだろうか。
相手に興味を持っていることをさり気なくアピールすることができ、無難な口火の切り方として非常に優秀であるといえる。

しかし、相手に「ご趣味は?」などと聞くと、どうもお見合いのような雰囲気になってしまうことは避けられない。
本当にお見合いならそれで良いのだが、大事な商談までもがお見合いになってしまうというのは憂慮すべき事態である。

よって、私は、初対面の人と話す時の最適解となる話し始め方は「ご出身はどちらですか?」だと思う。

もし相手の出身地が自分と同じだったなら、地元の“あるある”を挙げているだけで相手が喜ぶのだから話は早い[図1]。

もし出身地が異なっていたとしても(ほとんどの場合はそうだ)、相手は「では、あなたはどちらなのですか?」と返せばいい。
何を話そうか悩む負担を相手にかけずに済むわけだ。

図1

このように、相手に負担なく返答させることができ、あわよくば相手との話が弾むきっかけになるかもしれない「ご出身はどちらですか?」という質問は、会話においてまさに銀の弾丸となり得るのである。


しかし、このことを裏返すと、自分の出身地が判明していない人にはこのような質問をしない方がいいということでもある。

――そんなことを、対面心理学の権威であるスティーブン・タンカーが、『あの人はなぜいつも不機嫌なのか その謎を解く鍵』(田中浩司訳、小早川書房)の中で語っている。
自分の出身地が判明していない人は、このような出身地についての質問をされると、かえって不機嫌になるという。

確かに、出身地検査を行うには血液検査をする手間がかかり、決して安いとは言えない費用もかかる。そのため、ここ数年では出身地を特に重要な要素とは考えず、出身地検査を受けない人も数多くいると聞く。
自分が知らない自分のことを話題に出されたら、機嫌が悪くなる。
火を見るよりも明らかだろう。


とはいえ、私は彼の考えに反対の意を示したい。

「出身はどこか」と聞かれたことに対する返答は、相手が外国人ならばおよそ196通りが考えられる。2022年現在、世界の国の数は196だからだ。
ところが、相手の出身が日本であるという条件を加えると、考えられる返答は都道府県の数の分だけで、たったの47通りしかない。

193通りと比べると、その差は歴然としている。約4対1にまで差が広がっているのだ。
つまり、日本人(厳密には日本出身の人)は、海外の人々に比べて自分の出身地をそれほど重要視していないのである。


17歳のお子様でも分かるように例を挙げよう。

例えば、あるアメリカ人女性(名前はムハンマドとする)が、「私の父はボリビアの出身です」と言ったと仮定する。さらに、彼女が「私の母はハンガリーからの移民です」と言ったとすると、あなたはどう思うだろうか?
読者諸君の灰色の脳細胞をフル稼働させてよく考えてみてほしい。

おそらく、彼女のルーツがいったいどこにあるのかよく分からなくなるはずだ。
日本式出身地記法に慣れてしまった私たちにとって、日本式の4倍もの感度がある海外式出身地記法を完全に理解することは、極めて難しい。
彼女の出身地について理解できないことがもどかしくなり、もっと彼女のことを知ろうと質問を重ねるだろう。あるいは、事を複雑に感じすぎて脳が考えることを放棄してしまい、彼女が嘘をついているということにして無理やり自分を納得させるかもしれない。

いずれにせよ、日本人どうしの会話だと、このようなことは到底起こり得ない。
仮に「パパは北海道出身で、ママは沖縄出身のタラソテラピー好きなんだよね」と言われたとしても、諸君はすんなり理解することができるだろう。
「ああ、そうなのか」と。


これこそが、日本と海外の最も顕著な違いである。

このように、日本を飛び出して海外に目を向けると、日本とは出身地に対する姿勢が大きく異なっていることがよくわかる。

このことから、本書では、「(日本の)都道府県はなぜ47個なのか」という問いについて考察していきたいと思う。
なお、都道府県につける助数詞は、便宜上「個」とさせていただく。



第1章 47という数

都道府県はなぜ47個なのか。

この問いを考えるにあたって、まず最も重要なのは、47という数字が持つ特別な意味について考察をすることだろう。

都道府県が47個だという事実は、1943年からのおよそ80年間、ほとんどと言っていいほど変わっていない。道州制が話題になることもあったが、未だ実現はしていない。
この激動の80年間を不動の精神で生き抜いてきたのが、今の47都道府県なのである。

また、47という数自体に注目すると、47は1と47以外で割ることのできない素数であることが分かる。

これら2つのことから、私は、47という数字に何らかの特別な意味が込められているような気がしてならない。

そこで、47という数字が持つ意味や、その不思議な力について考えを巡らしてみることにする。


47の示唆

この47という数は、理論物理学に基づいた数学的なアプローチをすると、「4×7=28」という意味だととることができる。
この28という数をよく覚えておいてほしい。

1902年、当時の内務省は47道府県から28道府県に統合するという「府県廃置法律案」を計画していた。
最終的には日露戦争などの影響で施行までは至らなかったが、今回注目すべきところはそこではない。そう、またもや28なのだ。

また、インドのパッチャイヤッパル大学が2020年に発表した研究結果によると、沖縄県がアメリカの占領下に置かれたその日付は、1952年の4月28日だという。
ここにも28が見て取れる。

この3つの28というミッシングリンクは、偶然の一致として処理するにはあまりにもできすぎている。
聡明な諸君ならすでにお気づきだと思うが、都道府県に関する事象には、28という数が嫌というほど関係しているのだ。

これは、「日本の都道府県は本来28個であるべきだ」ということを暗示していると言っても決して過言ではない。
むしろ、「28個であるべきだ」と懸命に伝えようとしているようにも感じられる。


そこで私は、各時代の都道府県(時代によっては国)の数についてグラフにまとめてみることにした[図2]。

図2


古代中国の書物『漢書地理志』には、

夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。

という記述がある。
つまり、古代の日本には、100――現代のおよそ2倍もの国が存在していたのだ。

時代を進めると、奈良時代の律令制の下で使われていた旧国名は、古代から少し減って68個であった[図3]。

図3

そして現在はというと、誰もが知っている通り、都道府県の数は47個である。

図2より、当初100個だった都道府県の数は、一時増加したこともあったが、昔と比較すると確実に減少しており目標の28個に近付いてきていることが分かる。
だが、それでも日本にはまだ数が多すぎる。あと19個は減らさなければならないという計算になる(47-28=19)。

とは言うものの、現代に暮らす私を含めた我々にとって、統合してもよい不必要な都道府県など1つたりともありはしない。
では、いったいどのように都道府県の数を減らして28個にすればよいのだろうか。


都道府県を減らす方法

この問題については、すでに多くの文献やインターネットで、大学の研究者あるいは在野の研究者などの様々な専門家たちが各自の論を展開している。

その中でもとりわけ有名なものは、プロボウラーとして知られる佐藤勝が著した『人口減少時代の地方創生』(さくま学芸文庫)だと思う。
整数論を扱う天才的な数学者でもある彼は、今ある都道府県の数を減らすことなく20個にするという驚きの方法を紹介している(私の論では28個としていたところだが、彼の研究手法がやや特殊であるため、文献の解釈の違いから20個となっている)。

非常に興味深いものなので、ここに引用させていただく。

47を20に――。
とてつもなく奇妙なことを言っていると思われるかもしれない。いや、思われるだろう。しかし、これは、ある簡単な方法で実現が可能になる。
その方法とは、実際には47から数を減らさずに文書上でのみ「20都道府県」と記述していくというものである。なぜなら、実際に都道府県の数を減らす必要などどこにもなく、遥か未来の人々に「昔から日本の都道府県は20だった」と認識させるだけでいいからだ。文書は必然的に未来に残る。文書のみを改変してしまえばいいのだ。

この方法は、実現が可能であるかはともかく(調査はその筋の専門家(そのような専門家が存在するのかは分からないが)にお任せする)、私が研究する上での重要なヒントを与えてくれた。
インスピレーションと少しのやる気が湧いた私は、今までにない新たな2つの気づきを得ることができたのだ。


1つ目の気づきは、28個にこだわる必要は特にないということだ。

今まで私は「28都道府県案(通称ニート案)」を唱えてきたが、47から20にするという佐藤氏の言い分も、大いに理解のできるものだと気づいた。
ここからは、自説に醜く縋り付かず、彼の「20都道府県案(通称ニート案)」を取り入れて論を進めてみようと思う。


2つ目の気づきは、都道府県を48個にしてしまおうというものだ。

20個でも28個でも、ましてや47個でもない。
おそらく何を言っているのか理解できない方も多かろうが、これは、私が幼少期の頃から頭の隅で密かに考えていたことでもある。しかし、これまで、その方法を具体的に考えたことはなかった。

ここからは、都道府県の数を減らすことが目標であったのに反対に増やしてしまう理由、そしてその具体的な実現方法について述べていく。


改めて考えると、47という数字の持つ力は大きい。チャールズ・バーンさながらである。

それこそ、県の数は43個であるから、先述のような数学的アプローチにより、「4×3=12」と言い換えることができる。
これに都・道・府の4個を加えると、「12+4=16」となる。小学生でもできる簡単な計算だ。

こうすると、なるほど、元の47よりも16のほうが遥かに目標の20に近いということが判明する。
過去には100個に分裂していたこともある日本をいきなり20個に統合してしまうと、いろいろな不具合が発生することは想像に難くない。そのため、できるだけ秘密裏に20個に近付けようとした先人たちによって考え出されたのが、現行の47都道府県だったのだ。

これで、47という数字の謎はおおかた解明することができた。
ただ、細かく言うと、16のままでは20にはあと4だけ足りない(「20-16=4」となってしまう)。4というのは、し尿の「し(屎)」を連想させる下品な数字であるから、47都道府県のままにしておくのはいささか不安でもある。
20に残り4まで迫ったとはいえ、47は完璧な数たり得なかったのだ。


それでは、48都道府県にする私のアイデアを聞いていただきたい。
47(16)のまま放置するよりも、20に減らすよりも、ずっと効果的かつ現実的なアイデアである。

まず、48個にするため、今の都道府県に県を1個加える。都でも道でも府でもなく県だというのがポイントだ。
すると、44県となり、何度もしてきたように「4×4=16」と考えられる。これに都・道・府の残り4個を加えると、「16+4=20」。
見事に20ちょうどとなるではないか。

このアイデアは、半ばヤケクソ気味に47を20に減らすことよりも、圧倒的に簡単で容易でイージーな方法だ。今ある47個の都道府県に、1個の県を加えればいいだけなのだから。
27個も減らす必要など、どこに存在するだろうか。

このように考えると、47都道府県を47のまま残すメリットは、もはやこの世のどこにもない。今すぐ新しい県を追加するべきであろう。

さらにここからは、新しく加える県について、深く詳しく考察を展開させていく。



第2章 新しい県

県名

まずは、県名を決めなければ何も始まらない。

私が考えるに、新しい県の名前は、今の47都道府県の名前を部分的に拝借するべきである。
なぜならば、隣の中国には遠く及ばないものの、47都道府県は永遠にも等しい歴史を抱えているからだ。
奈良時代に編纂された最古の歴史書『日本書紀』には、こう書かれている。

高天原を治むること、此の天皇に適ひて、久しく相和し

この文を日本日本書紀研究センターに勤めている友人に現代語訳してもらったところ、「天皇が治める国は平和が長く続く」という意味になるそうだ。

中国3000年の歴史の中で、これと同じ言葉を発した人は、はたして何人いたのだろうか。実際は931人ほどいたのかもしれないが、過去のことなので誰にも分かるはずがない。真相は闇の中である。

つまり、47とは日本人、いや世界中の人々のデオキシリボ核酸に太古より刻まれた理想の数なのだと解釈することができる。

しかし今、我々は、この理想の数を崩して48にしようとしているわけである。
ならば、完全には崩さず、県名の中に47都道府県だった頃の記憶を少しでも封じ込めておくことが望ましいのではなかろうか。
47都道府県の名を一部引き継ぐことにより、48個目の県を、現行の47都道府県に勝るとも劣らない素晴らしい県にすることができるのだ。


したがって、私は「京阪県」という名を提案する。

京阪県は、ラバーダックでも分かると思うが、東京都と大阪府からその名前をもらっている。

なぜこの2県を選んだのかというと、日本で1番と2番目に人口が多いことが主な理由だが、他にも理由がある。

「京」という漢字には、東京や京都を指す以外にも、日本の中心地という意味があるそうだ。平安京や平城京といった言葉からもそれが推測できる。
東京とは、日本の首都を擁する街であり、関東平野の中心でもある。そして大阪とは、食い倒れの街であり、漫才界の中心でもある。
このように、江戸と京というかつての日本の中心地に共通しているように、現在の日本の首都である東京と食い倒れの街である大阪も同じく似通っているとして差し支えはないだろう。

また、「京」という言葉は、平安京や平城京といった言葉からも推測できるように、古代において奈良を指すこともあった。

つまり、京阪県という名前は、東京都・大阪府・京都府・奈良県の4つの意味を内包していると言える。
少し関西地方に偏ってしまった気もするが、4県を内包しているという点でコストパフォーマンスが非常に優れている良い県名であろう。


名産品

県名が決定したところで、次に、京阪県の名産品を決めようと思う。
名産品とは、例えば栃木県のかんぴょうのような、主にその地方でしか作れない品のことだ。

私は、たこ焼きが最もふさわしいと考える。
大阪と被ってしまうのがやや気になるところではあるが、私ももう立派なオジサンなのだから細かいことでわがままは言っていられない。たこ焼きを名産品とするしかないのだ。

たこ焼きを作るためには、生地となる小麦粉が必要である。どうせなら「きょうさかフラワー」とでも名付けようか。
ここで、小麦を栽培するには、広大な土地が必要になる。土地がなければ、小麦どころか農業すらできなくなってしまう。
よって、たこ焼きを名産品にする以上、必然的に京阪県は面積が大きい県であるということになる。


人々(特に若者)は、ランキングに対して異常なほどに興味を示す(次項で詳しく解説する)。

京阪県を面積が大きい県ということにすると、総務省国土計測室が毎年発表している『全国都道府県面積ランキング』の上位を狙うことができる。
毎年、このランキングの上位に入った都道府県は、若者から絶大な支持を受けることになるという。
面積が大きいことは、このように京阪県のパブリック・リレーションズにもなるのだ。

つまり、大きい面積(=人気)が獲得できるため、たこ焼きに地元産小麦(きょうさかフラワー)を使用することは非常に意味があると言える。

本場である大阪のたこ焼きは、おそらく他の地域のものと比べると群を抜いて美味しいだろう。本場というのはそういうものだ。
しかし、大阪は面積が1905.14㎢しかないため、流石に小麦は栽培できず、地元産を使ってはいないはずだ。
小さなことかもしれないが、この事実こそが、美味しさで負けている京阪県民にとっての誇りとなるのだ。


この考えで進めていくならば、ぜひ他の名物も積極的に考案していきたいところだが、残念ながら私はその方面についてはあまり明るくない。
よって、名産品の項はここまでとする。
名産品の創作については、かの高畑篤一が人生を賭して執筆した『47都道府県別 ご当地キャラ大集合! ~ゆるキャラが勢ぞろい~』(プラタナス社)を参考にされたい。


ランキング

先ほど、都道府県のパブリック・リレーションズにはランキングが非常に大切になるということを説明した。
京阪県の解像度をさらに向上させるためにも、都道府県に関する2つのランキングで京阪県がどの辺りの位置にいるのかを考えていきたい。


1つ目は、ブランディング総合研究舎が発表している『都道府県の魅力度ランキング』だ。
これは、各自治体のホームページなどで公開されているデータを分析し、都道府県ごとにその魅力を数値化・可視化したものとなっている。ブランディング総合研究舎(以下、ブラ研)によると、このランキングはランク0~4の5段階評価となっているそうだ。

私は、このランキングで京阪県はランク1であると思う。その理由は、まだ新興の県で魅力があまりないからだ。

ちなみに上位3県は茨城・新潟・鹿児島で、毎年9000万人もの観光客が訪れる人気観光地となっている。県観光課によると、そのうちランキングを見たことがきっかけで訪れたという人は、8割にも上るそうだ。

「このような人気の県になるためには、京阪県も上位にランクインしたほうが有利なのではないか」「どうしてランク1なのか」と思う才物もいることだろう。
しかし、その考えは間違っていると言わざるを得ない。

ランキングの下位に鎮座することで、ある利点が生まれる。
それは、観光客が訪れやすくなるということだ。一見矛盾しているようだが、順を追って説明していく。


そもそも、観光というのはお金のかかる行為である。旅行をするだけで、交通費や宿泊費などがかかってしまう。
一説によると、観光客は1回の旅行で平均15000000000000000000ジンバブエドルものお金を捻出しているという。特に人気のある観光地だと、旅行費はさらに高額になるはずだ。

人々は、まず人気のある都道府県を訪れる。人気があるのだから、これは当然のことである。
そして、その次にあまり人気のない地域、つまり京阪県を訪れてみようということになる。「穴場スポットかもしれないし、ダメもとで行ってみようか」というのである。
そうすれば、ランク1である京阪県のあまりの宿泊費の安さに、観光客は卒倒することであろう。
こうなると私たちの勝利は目前だ。つまり、宿泊費の安さの虜になった憐れなリピーターを囲い込むわけだ。

このような現象は、日本各地で見られる。有名な観光名所が近くにあるからという理由で、人気県に隣接する地域に足を運ぶ人がたくさんいる。

例えば、東京や大阪を訪れる人は多い。東京には日本有数の観光名所があるし、大阪には日本有数の観光名所がある。
しかし、あまり余裕のない人や学生などは、宿泊費を抑えるため、東京や大阪に隣接する地域に宿泊する場合が多いという。そこを拠点として、東京や大阪へ観光をしに行こうというのだ。
逆もまた真なりで、大自然を目的として地方へ赴き、その近くの大都市に宿泊する人もいる。

このように、隣り合う都道府県どうしがお互いを支え合って発展していくことは、非常に良いことなのだ。隣の県と仲良くすることは、非常に大切なことである。
ぜひ、京阪県民には隣の県と仲良くしてほしい。


2つ目のランキングは、国土交通省勘定課の『都道府県の人口ランキング』である。
人口が多いということは、それだけ経済力があるということでもある。
2004年に発表された『都道府県の人口ランキング』では、東京都が第1位になっている。東京は日本の首都なのだから納得の結果だ。
では、はたして京阪県は何位にランクインさせればよいのだろうか。


かのシェイクスピアは、「この世で一番恐ろしいものは何かって?  それは数字だよ」と言ったことで知られている。
ここでは、シェイクスピアに倣い、ランキングの順位だけでなく、その中身のデータも参照していく。

2004年の『都道府県の人口ランキング』によると、第2位は岡山県となっている。岡山の人口は約200万人なので、2位が本当に妥当な順位なのかどうか疑わしい。

岡山といえば、昔話の『桃太郎』で有名な場所だ。桃太郎といえば、きびだんごが登場することで知られている。きびだんごは私の好物でもある。

さて、イギリスのオックスフォード大学の研究によると、『桃太郎』の名は、実は岡山の地名が元となっているらしい。ここに、岡山第2位のヒントがある。
岡山県には、「桃尻」という地名が存在する。お下劣な地名だと思われるかもしれないが、桃尻は桃太郎伝説の舞台となった由緒正しい地である。

桃太郎伝説は現代までいろいろなバージョンの物語が伝わっているが、私の所属している一派が提唱している物語は次のようなものだ。

その昔、鬼ヶ城篤一と呼ばれる悪者が住む島がありました。そこは「鬼ヶ島」と呼ばれ、鬼ヶ城篤一は子分の鬼たちとともに近くの桃尻村へ行っては、略奪と脱糞を繰り返していました。困った村人たちは、村長の桃尻桃太郎という人物に相談しました。すると、桃太郎は言います。
「この刀でぇ一刀両断! 桃太郎、ズバズバ切っちゃうよ~!」
桃太郎は、自分の家に代々伝わる名刀・桃太刀を使い、見事、鬼たちを退治します。こうして村は平和になりました。でめたしでめたし。

ここで注目すべきは、桃太郎の特徴的な話し方である。
そして、さらにもう一つ注目すべきことがある。それは、先述の通り岡山県の人口が約200万人だということだ。
ここまで言えば、もう分かるだろう。

そう、このランキングは、『人口ランキング』の皮を被った『人口密度ランキング』なのである。つまり、このランキングの上位に入ることは、日常生活において人との物理的接触が多いことを意味する。

桃太郎伝説では、人間以外にも悪しき鬼が大量に登場する。単純計算をすると、鬼という種族が登場したことで登場人物(人口)が2倍になったということだ。
よって、現代の岡山県にもそれが引き継がれ、『人口ランキング』もとい『人口密度ランキング』の2位にランクインしているわけだ(補足しておくと、第3位は大阪府である)。

私も東京に住んでいて実感しているが、流石ランキング1位といったところか、東京はとにかく人と触れ合う機会が多い。駅なども毎日多くの人で溢れかえっている。移動するだけで大変だ。

この1~3位の都府県の混雑状況から、京阪県を『都道府県の人口ランキング』……ではなく『都道府県の人口密度ランキング』の何位にランクインさせるべきなのかが見えてくるはずだ。

ここまで本書を読んで大いに学んだ諸君なら、もう何も言わなくとも分かりきっていることだろう。世界の未来を担うのは諸君なのである。諸君の成長のためにも、私はあえて何も言わないでおく。これが教育者としての使命だ。



第3章 現実への昇華

さて、ここまで京阪県について様々なことを考えてきたが、ややややこしくなってきた感じが否めないので、いったん情報を整理しようと思う。

  • 東京・大阪・京都・奈良の4都府県の意味を内包した県名

  • 面積が大きく(『全国都道府県面積ランキング』でも上位を狙えるであろう)、地元産小麦のきょうさかフラワーを使ったたこ焼きが名産品

  • 『都道府県の魅力度ランキング』ランク1

  • 『都道府県の人口(人口密度)ランキング』第○位(諸君には丸の中がありありと見えていると確信している。その順位からおおよその人口を推測できる人がいると、私はより嬉しい)


48個目の都道府県である京阪県とは、このような県なのだ。
なかなか解像度の高い魅力あふれる県にすることができたのではないだろうか。

だが、まだ現実に存在しない以上、やはり実在する都道府県と比較するとやや不透明な部分もいくつかある。

この章では、京阪県をより現実に近付けるべく、いくつかの具体的な施策を提案していく。


基本データ

その前に、準備段階として、京阪県の根底にある基本的なデータを提示することにする。あまりにも基本的すぎて、今まで考えるまでもなかったデータだ。

まず県の面積だが、これは約10万㎢とする。
琵琶湖を除いた日本の陸地のうち約3割を占めることになり、かなり広いことが伺える。
日本の陸地は限られているため、その分他の都道府県には縮小していただくことになるが、これが自然の摂理なのだ。仕方がなかろう。

次に、日本列島における京阪県の位置についてだが、これに関しては実際に地図を見ていただくほうが早いと思うので、従来の都道府県に京阪県を加えた日本地図を巻末に掲載しておくことにする。
なお、本書で使用している地図は、国土交通省輿図よず調査部の『数値で見る日本地図』を元に作成したものである。この地図は、データが分かりやすくまとまっている大変優秀な地図で、私も常日頃から愛用させていただいている。

最後に、県章(県のロゴマーク)だが、これも文章では説明しづらいため、同じく巻末に掲載しておく。
私が三日三晩頭を捻って考え出した自信作だ。ぜひその目で見、京阪県を心で感じてほしい。


虚構から現実へ

さて、いよいよ想像上の県でしかなかった京阪県を現実の県にする時が来た。

ところが、諸君にお詫びをしなければならないことが1つある。

第1章・第2章と私が熱く論じすぎたせいで、本書のページ数に限界がきてしまったのだ。
担当編集の佐藤氏からも、「これ以上ページ数を増やすと、出版する際に値段が法外に高くなってしまう」とお𠮟りを受けてしまった。年甲斐もなく恥ずかしい話である。
誠に遺憾であるが、この続きは、またの機会に譲ることにしよう。私が生きている限り、このような機会などいくらでも訪れることだろう。

では、名残惜しくも、本書はここまでとする。
(数年後に出版されるであろう)本書の続編では、実際に私たちが直面する諸問題を中心として、京阪県の現実化・具現化について、多種多様な学問分野の叡智を集結させた全く新しい観点から考察していこうと思う。

それでは、また。



あとがき

本書は、私一人では書き上げることなどできるはずもなく、多くの協力者の支えによって上梓に至ることができた。本当に感謝している。

まず誰よりも、担当編集の佐藤氏。
彼がいなければ、私は数十年後もまだ原稿用紙に向かっていたことだろう。本書を書き上げることができたのは、ひとえに彼の尽力のおかげだ。この場を借りて厚くお礼を申し上げたい。

そして、私の拙く読みにくい駄文を最後まで読みきってくれた読者諸君。
あなたは私の読者第1号である。本書で学んだことはいつか必ず役に立つ時が来るはずであるので、自信を胸にこの先の困難に立ち向かっていってほしい。

最後に、もし本書を少しでも面白いと感じていただけたなら、ぜひともAmazomやその他通販サイトのレビュー欄に5つの星とともにコメントを投稿していただきたい。私のTwister(@Akira_Saito)などにも感想をいただけると、大変励みになる。

では、またの機会にお会いしよう。



参考文献

(敬称略)

書籍

  • 山中出版社編『新版 日本通史〈上〉北海道のあゆみ』山中出版社

  • 金谷俊次『改訂増補新装版 日本の歴史31 九州・自然薯編』中央共論新社

  • 西健一郎『猫でもわかる! 世界史大百科事典 その弐』中学館

  • 小姑小五郎『世界の架空地名を較べて』非凡社

  • 橋河公文『世界語源宣言』草々社

  • フィリップ・F・ライト『日本の地名は語源が9割』村本夏樹訳、学研パブリッシュ

  • スティーブン・タンカー『あの人はなぜいつも不機嫌なのか その謎を解く鍵』田中浩司訳、小早川書房

  • 佐藤勝『人口減少時代の地方創生』さくま学芸文庫

  • 高畑篤一『47都道府県別ご当地キャラ大集合! ~ゆるキャラが勢ぞろい~』プラタナス社

他231冊

論文

  • Kobayakawa,K.Land of Guilty.FICTION.2021,vol.931,no.10,p.100-111

  • Kobayashi,A.Spotlight is Amazing.SCIENTIST.2019,vol.931,no.9,p.19-24

  • Kogitanai,S.Dirty Omorashi.FANCTION.1992,vol.931,no.6,p.1-374

他91本


書籍や論文などはタイトルを記載している他にも参考にしているものがあるが、数があまりにも膨大であるからして、紙面レイアウトの都合上割愛させていただく。
残りは以下のウェブサイトに記載する。興味のある方は参照されたい。

https://ai-novel.com



著者紹介

斎藤明(Saito Akira)

社会学者。専門は労働社会学・キャリア論。現在、元治大学教授。
著書として、『若者の雇用と意識に関する調査報告』、『若者をめぐる言説の生成』、『労働市場の構造変化』などがある。
数々の受賞歴があり、「日本キャリア学会第3回学会賞(論文部門)」、「第9回日本労働社会学会奨励賞」などを受賞。
また、ハーバード大学時代には、執筆した論文がニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに載るなど、非常に高い評価を得た。アメリカの著名な雑誌であるアトランティック誌や、フォーリン・アフェアーズ誌などにも寄稿した経験がある。
プリンストン大学教授を経て、2018年、元治大学助教授に就任。






※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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