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社会での【存在価値】を意識しすぎて、自分が自分であることを見失っていた20代

YUKI《通称:おゆき》です。

自信とか自己肯定感とか自己受容とか。

自分に対する納得感だったり
満ち足りた心の在り方を考える上で
どうしても私の頭の中に
都度都度、浮かぶ言葉があります。

【存在価値】
【存在意義】

自己価値観が低かった頃の私には
常に付き纏っていた言葉、概念。

今となっては
悩むこともほとんどないけれど、
やはりこうして誰かの勇気になりたい、と
思った時に浮かぶ言葉たちです。

意識してしまったきっかけはあの子。

「存在価値」とか
「存在意義」とか

いつから、なぜ、
そんなことに
頭を悩ませるようになったのか。

間違いなくあの子です。

NARUTOの登場人物、「砂の我愛羅」

え?

って思われました?笑

思われてもしょうがないんですがw

小学校6年生あたりの
思春期に差し掛かってきた私には、
中忍試験編での
ナルトと我愛羅のガチンコ勝負のシーンが
なぜか強力に響いちゃったんですよね。

「オレは何のために存在し生きているのか?」

このセリフがどうも深いところに
入り込んでしまった模様。

今となっては
あまり覚えてはいないのですが、

思春期という多感な時期に、
きっと共感してしまう理由が
何処かにあったんでしょう。

親に愛があることはわかるけど、
関わってくれる大人たちに
優しさがあることはわかるけど、
でもどこか理解されていない気がして、

友人関係も、
元から狭く深くのタイプだったこともあり
そこまで交友関係が広いわけでもなく。

楽しい小学生生活だったど
どこかさみしくて孤独だったんですよね。

中学受験のために通っていた塾で
先生の顔色を伺いながら
ニガテな算数のクラスに通う
ストレスとかもあったかもしれません。

そんな状況だったからか、
やはり我愛羅のあの言葉は
根深くなってしまったようです。

はじめてのアルバイト

中高時代は別に存在価値とか、
考えることはなかった気もします。

考える余裕がないほど、
外の世界と戦っていましたwww

外の世界と戦った話は
また別の機会に綴ってみようと思います。

【存在価値】に再び
意識が向いてしまったのは
大学生になってから。

これは母のネガティブな部分に
意識が向きやすいという
影響もあったからかも
しれないのですが、

混雑したカフェなどで
待たされている状況で
母からすると気が利かないと感じたり、
仕事が遅いと感じる店員さんを見ると
「気が利かない」とか
お小言を聞いていた中高時代。

母の中では
もっと効率が良くできるのにな、とか
工夫のしようがあったのかもしれませんが

ネガティブな表現に
慣れてしまっていた母と、
それを身近に聞いていた私は

が利かない=仕事ができない
仕事ができない=価値がない
仕事ができない
=すぐに代わりが来てしまう
=すぐに使い捨てされる

という思考回路を
勝手に作り上げてしまい、

仕事ができなければ存在価値がない。

よって、

あなたがいないとダメだわ、と
言われるレベルにまで
極めなければならない。
努力せねばならない。

と、

はじめてバイトを始めるなり
自分ルールに
どんどん縛られていきました。

これが追究方、追い込み方、
極めるタイプの悪い方向に
向かってしまったパターンです。

社会人になってから堕ちに堕ちた暗黒時代

社会人になって
色々な要因はあったものの、

今となっては
「モラルハラスメント男(モラ男)」
だと思うのですが(笑)、

やたらカリスマ性に溢れていた
ヨガ講師、兼占い師、兼霊能者という
とんでもな人物に惹かれてしまって

結果として
自己肯定感も、自己価値感も
自身も何もかも地の底にまで
堕ちた時期がありました。

まあ、ざっくりいうと
ダメ男とダメ女だったわけですがwww

カリスマ性に魅せられて
その人に認められたら
存在価値が確固たるものになるなんて
信じていた節があって、

その人のために働き
その人のためにその人を手伝い
その人のために
自分の全エネルギーを注ぎました。

でもそれらは全て認められるどころか
貶され、まだまだだと言われ、
それどころか
俺の顔に泥を塗ることになるだのなんだの。

まーーーー

そいつもそいつですが、
私も私ですwww
(ついに”そいつ”呼ばわりw)

最終的には夜になると
やっと眠れると思えば、
朝になり
「ああもう朝か、、、」と
絶望する日々。

変わりたい、現状を変えたい、
でも変え方も分からないし
何をどうしたらいいのか分からない。

存在価値を変に意識しすぎて
誰かに認められれば
存在価値があると
ねじ曲がった考えを抱き、

存在価値や存在理由を
他人に委ねてしまったが故の
自業自得といえば
自業自得の時期でした。

瞑想や脳科学、コーチング理論を学んで回復

そこから紆余曲折はありつつ。

その暗黒時代真っ只中から
3年ほどして
瞑想と脳科学、
コーチング理論に出会い、
徐々にマイナスがゼロになり、
学べば学ぶほど
プラスになっていきました。

今となっては
あの暗黒時代があったからこそ、

存在価値や
存在理由の判断基準を
他人に委ねることの
無意味さであったり

自信がなくなってしまったり
自己肯定感が低くなっていく
負のループに
ハマってしまう一要因が

自分の感じている違和感を無視して
さみしいから、
孤独だから、不安だからと
輝いて”見える”人に引き寄せられて

自分主体ではなく
相手・他人主体になって
生きてしまうこと
だったな、と
自分なりの答えが出ています。

自分の感覚・直感・違和感を察知する力

【存在価値】

という言葉はあるけれど

それはあくまでも
どこかの誰かが
生み出した言葉でしょう。

そしてその名前も顔も
知らない人が
作り出した言葉の概念によって

過去の私がそうだったように、
今もどこかで誰かがこの概念に
頭を悩ませているかもしれません。

けど。

存在価値ってわざわざ考えたり
明確にある必要って、
あるのだろうか。

そう思うんです。

存在価値については
求められたり感謝されたら
それはそれできっと
あるのだろうけど。

存在価値云々を考えるよりも、
他人から何を言われるか
気にしたりすることよりも、

まずは自分で、
自分の価値を決めて認める。

これが大事なのではないでしょうか。

そしてそのプロセスに、
自分の感覚・直感・違和感であったり
得意・不得意をちゃんと把握する。

結局、自己理解していくことが
存在価値という概念からの
不安を拭い去る方法だと思います。

そして自分の感覚をしっかり
察知するためにも、
やはり瞑想というのは
相性が良いと思う次第です。

そうだ、瞑想しようと
何年か前の新年に思い立った私、
ナイス直感だったと思いますw

私の瞑想プログラムはまた近いうちに
再始動しようと思います。

(実は数年前に瞑想プログラムやってました)

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