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「会いたい」から始まる言語習得

バンクーバーの中央図書館には、「JAPANESE」と書かれている区画がある。ここには日本のマンガ、雑誌、小説、エッセイ本、自己啓発本、ビジネス書、ガイドブック、児童書、絵本、参考書に至るまであらゆる本がずらりと並んでいて、初めて見つけた時にはバラエティの豊富さに衝撃を受けた。英訳出版されているものは別の階にあり、ここには日本語の本のみ並べられている。母国語で小説やマンガを読みふけることができるという、異国生活において本当に貴重な場所なのだ。

私のバイブル『バガボンド』は全巻揃っている。不朽の名作(国宝と呼んだっていいくらいだ)『ONE PIECE』『NARUTO』『BLUE GIANT』『ゴールデンカムイ』『宇宙兄弟』。近年世界的大ヒットとなった『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』はもちろん、『坂本ですが?』や『今日の猫村さん』『ニーチェ先生』……マンガ好き歓喜のラインナップだ。おそらく、この街に住んでいる、あるいは住んでいた日本人からの献本もかなり多いだろう。日本人人口の高いバンクーバーの暮らしやすさを、ひしひしと感じる場所でもある。私にとっては図書館であり、漫画喫茶だ。

今日は何も読もうかな……と、マンガのタイトルを目で追っていると、「Excuse me」と隣から声をかけられて右を見る、が、手元しか見えずに顔を上げた。立っていたのは60代くらいのすらっとした長身男性で、白髪混じりのアッシュグレーの髪が天然パーマでクルクルしている。英語のアクセントや顔立ちから、おそらくブラジル系の方だろう。私が「Hi」と返すと、彼は手に持っているマンガを私に見せ、タイトルの意味を英語で教えてほしいと言ってきた。

『ヲタクに恋は難しい』の2巻だった。
おっと、またカルチャー色の濃い作品だこと。


「Hm…」と一瞬詰まらせて考えたのは、おそらく正式英名ではヲタク=Otakuと訳されていること。とはいえ、目の前の60代紳士はOtakuが何かを知っているだろうか?

ということで、代わりにnerdを使うことにした。「Love is hard for a nerd…I guess? I don't know the official English title though(正式な英語タイトルはわからないけど)」と答えると「oh〜〜!」と笑顔になる。

すでに読み始めているらしく、栞の代わりに指を挟んでいることに気がついた。中を見させてもらうと、やっぱり全てが日本語で書かれている。タイトルも読めないのに、内容がわかるのだろうか?「あの…これ、内容わかる?」と聞くと、案の定「ううん、全然!」ときっぱり返ってきた。


「もし英語で読みたいのなら、英訳されたものが上の階にあると思うよ。あとそれ2巻だから、1巻探そうか?」と伝えてみても、「いいんだ!このイラストが気に入ったから、この本から日本語の勉強を始めてみようと思う。ありがとう」と言う。
(読みやすさのために上記では会話を日本語で書いているけれど、実際に彼が話した日本語は「ありがとう」のみだった)

──あっ、え?日本語の勉強のために…?


話を聞いてみると、10ヶ月一緒に働いた日本人女性の同僚が先月帰国してしまい、彼は彼女にもう一度会いたくて大阪旅行を計画しているらしい。そして彼女の話をもっと理解するために、日本語の勉強を始めようとしている……と。

「僕らはすぐに意気投合して、とてもいい関係だったんだ。また会いたいよ」と言う彼の瞳に映る熱が、どの情なのかはなんとなく察したけれど、もちろん聞かなかった。「イラストは同じだし、せめて1巻から借りたら?」とも思ったけれど、それももう口にはしなかった。

私は大学で勉強して資格を取り、日本語教師としても働いていた時期がある。日本語をイチから学び始めるときに、一般的にどんな教材とステップを辿るのが近道とされているのかを、一応は知っている。でも人には人の、言語を学びたいという欲を沸かすマグマがあるものだ。動機も相性の良い学び方も、本来は千差万別。本人が一歩目として選びたいものに対して、「こっちのほうが近道だよ」とか「こっちのほうが易しいよ」なんて、求められてもいないのに手を引くのはお門違いだし、最適解なんて誰にもわからない。

彼はページを開くたびにスマホやパソコンで意味を確認し、それでもわからなければ誰かに聞いたりしながら、『ヲタクに恋は難しい』の2巻を読み進めることだろう。それが、一歩目として彼が見つけた日本語の学び方なのだ。飽きたり、途方もなさに嫌になって読了に至らなくてもいい。早く正確に習得することだけが、ベストでもないのだと思う。恥をかくから覚えられる、間違えるから人と繋がれる。そういうことが、英語習得中の私の身にどれだけあっただろう。

この作品は、他のことには目もくれず、何かを熱狂的に愛してしまったヲタク2人によるラブコメだ。日本文化をよく知らない60代の紳士にとって、面白いと思えるストーリーなのかはわからない。けれど「もう一度会いたい」と思う彼女がずっと脳裏に居るならば、自分の中に新たな言語が増えていく瞬間を、きっと楽しめる。それが日本語であることを、私は勝手に嬉しいと思うのだった。

タイトルもよくわからないまま、イラストが好きだと思えたマンガの2巻から。良いのだ、それで。自分の好きなページからはじめたらいい。


keep my fingers crossed🤞


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