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私の生い立ち(その3) 〜 平坦な道へ修正するための前進 〜

やっとの思いで空白の小学校5年生が終わり、あと1年も同じ日々を過ごさなきゃいけないという苦難を抱えた小学校6年生の初日。
私のクラスに担任としてやってきたのは、見た目も言動も、何もかもが学校一怖いと噂の男性教師だった。
今思い返せば、別に体格的にガッシリしてたわけでもないけど、小学生からしたら大人の男性なわけで、見た目は普通にメガネかけたコワモテ。
その先生が登場した時、女子はもちろん、男子も姿勢がピシッと正されたのは今でも覚えてる。
客観的に見て、本当に笑えた光景だった。
やっぱり教師相手でも、大人の男性には逆らえない何かを感じたクラスメイトもいたんだと思う。
それでも私の隣の男子は、何となく反抗的な態度を崩さなかった。

その先生はまず、クラスの生徒のことを知ろうとしばらくは授業をやらなかった。
黒ひげゲームなんかをしたことを今でも覚えてる。
それでも、いきなり心を開ける生徒は少ない。
特に5年生が特殊だった分、先生よりクラスの男子のことが怖かったからだ。
どんなに先生の前で大人しくなっても、それ以外の時間が信用できない。

素の自分をさらけ出すことが、心を開くことと必ずしもイコールではないと思う。
心を開くって、相手に気を許すに近い
のかな?
でもその分、裏切られた時の反動も大きいわけで。
自分以外の人間の本心なんて、言葉だけじゃわからない。

波風を立てないようにするとか、その場を丸く収めるとか、色々自制したりだとか、他人とのコミュニケーション能力や集団生活での協調性を養う、いわば社会性を培うことが義務教育の一つなんだろうけど、そんなこと意識して学校通ってる子供なんて、いるわけないだろうし。

そんなのわかってたら、一匹狼だとかイジメなんて存在しないはず。
でも大人の世界でもそういうことが存在するんだから、義務教育の必要性って何なんだろう?って思ったりする。
特に上司のパワハラ・セクハラとか。

学校生活って人生の一部分にしか過ぎないんだけど、働いてからよりは記憶が残ってる気はする。
もちろん、生い立ちやそれぞれの環境の変化で人間性は変わるから、そこで人間形成が決まるとは言えないけど。
だからこそ、「修正」も可能なんだろう。

この6年生の時の担任は、色々熱心だった。
理不尽に怒ることはなかったし、もちろん体罰もなかった。
5年生の時の担任とは違って、クラスの男子以外にも怖い対象が増えるのかと最初は苦痛に思ったが、意外にも事態は好転した。
ある意味ギャップがあったと思う。
優しいところも、楽しいところもあり、少しずつクラスに笑顔が見えてきて、本当に少しずつだけど、クラスという「まとまり」も出てきた。

一人一人平等に接して、決して邪険に扱わない。
色々面倒な生徒とか、抱えた悩みだとかあったと思うけど、あの頃はこんな先生に出会えて幸運だな、とさえ思えた。
いつの間にか隣の男子も大人しくなってた。
後で聞いた話によると、その男子は両親の離婚問題に直面していたとか。
彼にもそれなりの理由があったんだなって。
でもあの態度を許すこととは別問題だけど。

小学生を卒業する頃には、普通のクラスのような状態になり、無事に卒業することができた。
そこから中学校は至って平坦に過ごせた。
友達同士のイザコザはあったりしたけど、イジメとかに比べれば可愛いもんで、本当に平凡な日々だった。


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