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「オケバトル!」 33. 彼女がつれない、そのワケは


33.彼女がつれない、そのワケは



 この期に及んでの音出しは興ざめになりかねない。あとは自分らの力を信じて本番の空気に委ねよう。とのことで、Bチームも二時間たっぷりの自由時間を得られることになる。
 多くの者は朝メシ抜きだったので、カフェで優雅なブランチをとったり、スタッフにお願いして、バスケットにサンドイッチやスティック野菜、カラフルな彩りのフルーツにノンアルコールのシャンパンなどを豪華に詰め込んでもらい、陽光の降り注ぐ中でのピクニックとしゃれ込むのだった。

 最初はおっかなびっくりであったものの、チームメイトの純朴な歌に気分も高まった浜野亮は、今度こそ自ら気持ちよくタクトを握る覚悟を決めていた。
 その前に、腕や楽器がすっかり良くなったどころか、今朝になって格段に調子が素晴らしくなっていたことの報告とお礼を述べたくて、医療室を訪れてみる。
「彼女なら、いませんよ」
 開口一番、さらりと女医に言われてしまう。
「いえ、そういうわけでは」
 と口ごもるが、実際はそういうわけだと見抜かれてしまっていたか。
「ただ、昨日のお礼を伝えたくて」
「残念だけど彼女は当分、ここに来られないの」

 あのじいさんの差し金か! いや、僕のせいなのか?

「ですが吉報が」
 女医は手のひらにクリームの入った化粧瓶を乗せて言った。
「アントーニアの提案でね。この魔法のマッサージクリーム、バトルメンバー全員に無償で配られることになったんですよ」
「それはありがたいお話で」
「トルマリン鉱石がリッチに配合された、高価で貴重な品というのに、彼女がスポンサーに直談判してね。各自一瓶ずつ、今夜には皆さんのお部屋に届きますよ」

 亮くんは嬉しい反面、複雑であった。彼女がそれほどまでにする、ということは、単にバトル参加のアーティストの身体を気遣ってのことか、あるいは、この僕に「自分でケアしろ」とのメッセージが込められているのか……。
 いやいや、そうした自己中な考えは捨て去らねば。アントーニアさんは純粋に皆を思いやってくれているのだろう。昨日の実験台=名もなきトゥッティ族の一人に、絶大な効果が現れたことを受けての善意の行動なのだろう。
 しかし、じいさんの剣幕もあったからな。彼女、あれから散々叱られてたりして。やはり直接会って確かめないと。

 熱心に医者は続ける。
「今日は四日目で、今のところは重症の筋肉痛患者さんはまだ現れないけど、バトルが白熱するにつれて、こちらも心配だったのよ。でも、このトルマリンクリームさえ塗っておけば、過酷なバトルも恐い物なしよ」
「恐い物なしかあ。助かるなあ」
「癒やしの効果もあるから、精神面にだって効くのよ。とにかく使ったもん勝ちってわけ」
 じゃあ、是非ともみんなに勧めておきますね! と礼を述べて、亮は戦慄の楽器保管室へと足を向けた。彼女、いるかな? それともクレスペル顧問官もどきのじいさんに、またもや撃退されちまうかな?



「失礼しまーす」
 重いドアを押し開けると中からは、ああ! 麗らかなアントーニアの歌声が。しかし姿は見えず。
「おや、学生さん、調子はいかがかね?」
 立ちはだかるは楽器庫の老番人。昨日とは様子が少し違うよう。酒の臭いはしないものの、何やら飲んだくれのくたびれおやじ、といった風。
 学生じゃないんですが......、という言葉は控え、ヴァイオリンも身体の調子も、おかげさまで絶好調ですと、まずは丁寧に礼を言い、奥の様子をそっと伺う。歌声は、部屋の奥の扉の向こうから聞こえているようだ。
「こらっ、うるさいぞ!」
 老人の叱責で、歌声がぴたりと止んでしまう。ああ、麗しのアントーニアは、やはり歌を禁じられているのだろうか。勇気を奮い起こし、浜野亮は一歩前に進み出た。
「何故、歌がダメなんです? あんなに素晴らしい才能は、活かしてあげないと」
「おやおや、いけませんね、学生さん」
 少々くだけた調子で、老人は言った。
「何をそんなに怒ってらっしゃるんですかい?」
「あなたがアントーニアさんの歌を取り上げようとなさってるからです」
 憮然と、亮は言い放つ。
 そこで老人は首を傾げた。
「まったく状況が分かってらっしゃらないんですね」
 再びアントーニアの歌声。何故かどこか調子っぱずれにも聞こえるし、このメロディーは、もしかして?
「黙らっしゃい! 他の囚人に迷惑だろうが」
 と、老人が奥に向かってどやしつけたところで、哀れな観客、浜野亮には、この舞台の設定がようやく見えてきた。良く知ったオペレッタの、登場人物表が心に浮かぶ。

♪ ♪ ♪   喜歌劇《こうもり》人物表   ♪ ♪ ♪



 亨は、はあーとため息をついて、じいさんに話を合わせた。
「《こうもり》ってわけですね。シュトラウスのオペレッタ。この奥で歌う彼女が、監獄に閉じ込められてるテノールのアルフレート役。そしてあなたは、刑務所長……、いや、違った。看守のフロッシュ殿というわけですね」

 ウィーンの音大に留学中、日々足繁く通った国立歌劇場のオペラや、フォルクスオパーのオペレッタ。立ち見席では5ユーロでお釣りがくるほどの超格安料金で、最高の舞台をいくらでも観れるものだから、あの時期は自分の音楽人生において、どれだけ勉強になったことか。
 往年の名優が演じることの多い、この看守フロッシュ役は、アドリブのセリフが抱腹絶倒。ドイツ語が堪能でなかった時分は、回りの観客がゲラゲラ大笑いをしていてもわけが分からずむなしい思いをしていたが、このフロッシュのセリフで大いに笑い転げる自分を目標に掲げて、ヴァイオリンとともに語学も猛勉強で取り組んだのだった。
 僕がウィーンの生活に自然に溶け込めるようになったのは、この看守役のおかげとも言えるのだ。

「そういうあなたはどなたかな?」
 恐らく中身の入っていない酒瓶を傾けながら、フロッシュじいさんは酔っ払いを装って尋ねてくる。
「わたくし、恋人を牢獄から救いに来た、ロザリンデでごーざいますわ」
 と、カウンターテナーばりの裏声ソプラノで、亮は貴婦人っぽいしなを作って見せる。
 予想外の、若者の豹変ぶり。まさかの女性の役を持ち出してくるとは。これには看守役の老人も意表を突かれたか、これはこれはと感心したように大きな眼を更に見開くのだった。
 ロザリンデ=亮は、そうした老人の隙を突き、たった今演じた女性としての役柄も忘れて、奥の牢獄──という設定──に、強引に突入する。
 アルフレート青年ことアントーニア嬢は、地下牢に閉じ込められていたわけでもなく、作業台に寝かされたチェロを丁寧に磨いて手入れを施しているところであった。さぞかし音も良くなりそうだ。一瞬のことだが、ロザリンデ亮は少しばかりチェロをうらやましいと思ってしまう。

「あら、勇敢ナイトさんでしたのね」
 目線を合わせようともしない、彼女のそっけない態度。やはり、じいさんに釘を刺されてるのか。案じる亮だったが、美しい巻き毛を無造作にアップに束ねたスタイルにも、ついついくらっときてしまい、そんな障害は乗り越えてみせよう、と勇気を奮い起こす。

「ひと言お礼を言いたくて」
 さあ、どう切り出すか。
「それから昨日のことだけど──」
「どう致しまして」
 アントーニアは作業の手を休めずに冷たく告げた。
「だけど、もうここにはいらっしゃらないで。私たち、会ってはいけないんです。会話を交わすのも、ダメなんで」
「アントーニアさん、あなたのおじいさんが何とおっしゃろうと、好きにすればいいんですよ」
 予期せぬ拒絶モードに必死で食い下がる。ぶざまであろうと、こうなったら意地なのだ。何しろこちとら大切な本番前。愛を勝ち得て意識を高める必要だってあるんだから。
「そういう問題じゃ、ないんです」
 ぴしゃりと言って彼女は立ち上がった。
「あなたが出て行ってくださらないなら、私が消えないと」

 わけが分からない。
 亮は唖然として考え込んだ。きのうはあんなに素敵な調子だったのに。ひと晩あけたらストーカーもどきの扱いだなんて。いやしかし、この状況はストーカーそのものではないか。彼女は涙ぐんでさいえいる。これ以上ご令嬢に忌み嫌われたくないし、迷惑もかけられない。

 浜野亮はやむなく退室すべく、一歩下がって深々とナイトの一礼をして、顔も上げずにうつむいたまま楽器室を後にする。

「おやおや、ロザリンデさん、アルフレートに振られちゃってザーンネンでしたー」
 この老人の策略に、まんまと僕ははまってしまったか。いや、彼女のあの冷たさは、本気の本気だった。

 嫌われた、嫌われちまった。もうおしまいだ。脱落だ。

 絶望のあまり、飲んだくれの看守のごとく、正体なく酔っ払ってしまいたい気分にかられるが、バックヤードですれ違うBのチームメイトの期待に満ちたまなざしに、指揮者としての責務を思い起こす。そうだ。自分にできること。

 己の使命をまっとうして、Bの勝利とともに愛を勝ち得るのだ。

〈青きドナウ〉の歌詞の、最も気に入っているラスト、「我ら今歌う、青きドナウを讃えて。我ら今歌う、とこしえに美しく青きドナウの歌を」のくだりを、きれいなテノールによる原語で歌いながら、いざゆかん、本番へ! と気合いを入れゆくのだった。




「〈美しく青きドナウ〉。良く知られたこの題名は、直訳ですと〈美しく青いドナウ川のほとりで〉とか、〈麗しい青きドナウに寄せて〉といった訳になりますが、我が国でも世界的にも、ただ〈青きドナウ〉といえば何と言っても──、
 そこで宮永鈴音は言葉を切り、かの有名な「ドミソソー♪」のメロディーをヴァイオリンでたっぷり歌ってみせる。
「お分かりですよね?」と、首を傾げてにっこり。それから深いため息をつき、
「ああ、さざめくような弦のトレモロに乗ってのホルンのソロに始まる、このあまりに崇高な出だしは、こんなヴァイオリンのたとえなんかでは決して表すことなんて、できませんね。失礼しました」
 と言ってから、この名曲の成り立ちの経緯をかいつまんで物語る。

 19世紀半ばのこと。
 隣国プロイセンとの戦争に敗れ、意気消沈するオーストリアの人々のために、
「気持ちを奮い立たせるような合唱曲を書いて欲しい」
 と、宮廷楽長にして男声合唱団も指揮する友人にせがまれたヨハン・シュトラウス──息子のほうですよ。同名の父親も、ワルツの父と称される著名な作曲家ですものね──。
 既に円熟期を迎えたワルツ王でありながらも、合唱曲を作曲の経験も自信もない中、渋々作曲したもので、春の初演時は、歌詞もドナウとは無関係の勇ましくも貧相な内容の代物だったせいか、大した評価は得られなかったようです。
 ですが同じ年の夏、この曲はパリやロンドンでの客演の折に大変な評判となり、後に歌詞もドナウ川への憧憬を歌う内容に書き換えられ、やがてはシュトラウスの代名詞となるほど確固たる地位を確立していきます。今日では自国の第二の国歌としてだけでなく、世界中で歌われ、奏され、親しまれています。

 といった説明が終わったところで、先攻Bチームの入場となるが、一行がまず驚いたのは……、あれ? あれえっ!

──ジョージがいない! ──

 そして彼がいた席には、代わりに等身大の美しいフランス人形がちょこんと可愛らしく置かれている。いや、人形じゃなさそうだ。あれは、彼女は……、

──オランピア嬢ではないか! ──

 そんな風に、審査員の突然の入れ代わりの事態に気づいた者は、まずはがっくり。非常にがっくり。
 ジョージさん、未熟なうちらをあんなに温かく見守ってくれてたのに、別れの挨拶もなしに行ってしまったんですか? 寂しいですよ、ジョージさん。あの素敵なお姿がもう見られないなんて。
 ああ、そうか。最初から「僕は三日間」っておっしゃってましたっけね。いつしか約束の三日は過ぎてしまったんですね。
 そしてあどけない少女のようなオランピアさんが、新たなゲスト審査員とは。
 哀しいけど、ちょっと嬉しいかも。あんなに可愛いお嬢さんが、いったいどんな評価を下してくれるんだろうか。それに彼女もジョージに負けず劣らずの見目麗しいきれいどころだし。彼女が客席にいるだけで、演奏にもついつい熱が入ってしまいそう。

 混乱のチューニングの中、メンバーの動揺もいつしか収まり、すべての準備が整ったところで、マエストロ浜野の登場である。気持ちを引き締めてカツカツと指揮台に向かい、台の手前で歩みを止め、まずは一同に起立を促し、審査員陣に挨拶を──、
 先に指揮台に上っておかなくて良かった。と浜野亮は心から思った。動揺のあまり、台から転げ落ちる可能性もあったろうから。今度は下にマットなど敷かれていないのだ。

──そうか。そうだったのか! ──

 皆と一緒にお辞儀をしながら亮は思った。これですべての合点がいく。本番以外での、審査員との接触は厳禁。これがバトルのルールである以上、彼女は立場上それを守り通さねばならなかったのだ。
「アントーニア、あなたのために最高の音楽を捧げましょう」
 なんて決めゼリフは心に留めて、浜野亮はコンマスと、セカンド及びホルンの首席としっかり目線を交わし合い、崇高なる出だしに入っていった。




34.「ウィーンバトルの幕開け」に続く...




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