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短編小説「木漏れ日の道」

 ふと、空を仰いでみただけです。泣いてなどいません。流れゆく雲の隙間にあなたの影が見えた様な気がしたものですから。

 僕は父を知りません。生まれた時には既に両親は離婚していて、物心つく頃には父のいない暮らしが当たり前になっていました。優しい祖父母との穏やかな生活を送る中で、仕事で忙しい母が家に帰って来るのがいつもの楽しみでした。
 珍しく休日に母と二人で街中に遊びに出ると、子供連れの家族を沢山見かけました。その中には、両親に挟まれて両手を繋ぐ子の姿もありました。僕も母と手を繋いでいましたが、もう片方の手は宙ぶらりんのまま空中を漂っていました。
 静かに隣を歩く母の顔を見上げると、母も彼らの様子を見ていた様で、僕はその時初めて大人の人の哀しい表情を知ることになりました。
 僕は少しだけ母と繋いだ手に力を添えて、

「お母さん、お腹が空いた」

 と口先を尖らして言いました。そんな声に気付いた母はにっこりと笑い返し、

「久しぶりにあのハンバーグ屋さんに行こうか」

 と言いました。「うん」と快く返事をした後、スキップをして見せた僕の心には母の哀しい表情がいつまでも振り払えないかげろうの様に立ち込めているのでした。

 高校生になる頃、僕はよく『物静か』と言われる様になりました。僕自身そんなつもりはないのですが、確かに教室で周りの同級生達を見渡してみると彼らは男女問わずよく楽しそうにお喋りをしています。僕はどちらかと言うと話をするより話を聞いていることの方が好きなので、進んで自分から誰かと話をしようとはせず、それが傍から見たら『物静か』に見えるのかもしれません。
 そんなある日、僕のことを好きだという同学年の女子生徒が現れました。彼女とはクラスが違うのですが、文化祭などで二、三度話をしたことがあります。明るく快活なイメージの彼女が正反対の性格の僕に好意を抱くのは何故だろう、と考えている内に話はどんどん進んでいき、いつの間にか僕は彼女と交際する様になっていました。

 大学生になってからも彼女との交際は続いていましたが、次第に疎遠になっていきました。きっかけや明確な理由なんて分かりません。環境の変化や人間関係の移り変わりに起因して、意識せずともお互いの胸の中に潜んでいた不満が牙を見せてしまったのかもしれません。彼女からの別れ話で、僕らは別々の道を歩むことになりました。
 その頃から、不思議と僕の靴紐がよく解ける様になりました。立ち止まって次こそは解けない様にきつく紐を結ぶのですが、暫く歩くとまた解けるのです。何度結び直しても同じ様に解けるものですから、僕はいつしか紐の無い靴を選んで履くことが多くなっていました。

 それからしばらく、僕は独り身でいました。社会に出てからも定時で終わる仕事をこなしつつ、休日には一人暮らしのアパートから実家に帰って母や祖父母との時間を過ごす様にしていました。幼い頃から祖父母と近しい生活をしていたので、日増しに老いていく二人の姿を見ているのは寂しくもありましたが、二人からすればそんな思いは「余計なお世話だ」と言われる様な気がしたので、僕は幼い頃と相も変わらぬまま祖父母との時間をゆっくりと過ごしました。
 一方、母は半年前に小脳出血を起こして休職していました。治療とリハビリを続けながら日常生活には殆ど支障のない程度まで回復することはできた様ですが、未だに目には後遺症が残っており、視野の一部がぼんやりと歪んで見えるそうでした。

「仕事のことはまだ無理しないで。お金はこれからも僕が送るから」

 と言うと、母は少しだけ寂し気な笑みを浮かべて、「ありがとう」と返すのが毎度のことでした。

 その一年後、僕は親戚伝いに父の所在を知ることになりました。しかし所在と言っても、それは郊外の端にある小さな霊園でした。ヒグラシの鳴く林の傍の小さな道を抜け、濃い緑に染まった稲の葉が風に揺らぐ音を聞きながら静かに歩みを進めると、ひっそりとした霊園が顔を覗かせました。多く敷き詰められた砂利に靴底を包まれつつ、僕は父の眠る墓石の前に辿り着くことが出来ました。
 しばらく父方の姓が刻まれた墓石を見詰めた後に、そっとポケットから一枚の写真を取り出しました。そこには、若い日の父と母の寄り添う姿が映っていました。
 父が他界したのは、十年前の夏のことだそうです。不景気により仕事を解雇され、精神的に不安定になった父は酒やギャンブルに溺れて僕が生まれる前に母と別れた後、肝臓を病んで一人寂しく病床で亡くなったとのことでした。僕は近くの石段にゆっくり腰を下ろし、しばらく座り込んで物思いにふけっていました。ふと天を仰いでみると、先日まで入道雲が高く立ち昇っていた空には薄っすらとした秋の雲が漂い始めていました。

「声も知らない、実際の姿も分からない。僕にとって、あなたは何なのですか?」

 そんなことを一人、呟いていた様な気がします。

 その後、僕は友人のツテで一人の女性と知り合うことになりました。穏やかで物腰が柔らかいものの、どこか惹き付けられる明るさを持ったその人に、いつしか僕は想いを寄せる様になっていました。
 連絡を取り合う様になって数回食事に行った後、僕らは交際することになりました。彼女の名前は『ほたる』さんと言います。医師をしている彼女はエンジニアの僕より忙しそうでしたが、そんな中でもきちんと予定を合わせ、二人の時間を過ごすことを大切にしてくれました。

 そんな忙しなく時の過ぎて行く日々のとある日。フルでリモートワークに切り替わっていた仕事をカフェで涼みながら片付けていると、「あれ、もしかして」と声を掛けられました。柔らと顔を上げると、そこには大学生の時に別れた前の恋人が立っていました。僕は彼女の顔をしばらく見た後に、そっとその視線を下げました。そこには、彼女と左右それぞれに手を繋いだ二人の小さな男の子がいました。二、三歳くらいでしょうか。

「・・・久しぶり」

 そう彼女に言われたので、僕も「久しぶり」と返しました。彼女はそれぞれ男の子に名乗らせた後、僕の事を『お母さんのお友達』と彼らに紹介していました。

「結婚してたんだ?」

 と僕が訊ねると、彼女の表情に少しだけ影が差した後、

「でも離婚したの」

 と答えました。僕は「そうなんだ」とも言わずに、そっと視線をテーブルの上に落としました。しばらく沈黙が続いた後、
「元気だった?」と訊ねられたので、「うん」とだけ答えました。
 それから彼女は小さな笑みを浮かべつつ「それじゃ、またね」と言った後、二人の息子を連れて会計を済ませ、振り向きもせずにカフェから出て行きました。街角を曲がって三人の姿が見えなくなるまでカフェの窓から見ていた僕は、頬杖を付いたまま小さな溜息を零しました。
 『過去』はいつの間にか、『自分の中だけにある過去』になっているのだな、と僕は思いました。

 その二年後、僕はほたるさんと結婚しました。ほたるさんにはお兄さんがいて、寡黙なお兄さんと僕はとても気が合いました。それにほたるさんの御家族とも交流が深まり、穏やかなほたるさん一家のことを僕は好きになりました。ほたるさんには両親がいるので、時折お義父さんとお義母さんに挟まれて幸せそうに話しているほたるさんを見ていると羨ましく思う時があります。しかしそれ以上に、ほたるさんが幸せそうにしている姿を見るのは僕にとってこの上ない喜びでもありました。

「・・・ごめんね」

 ある日の夜。寝室で突然ほたるさんにそう言われました。

「・・・何が?」

 僕がそう訊ね返すと、ほたるさんは僕の瞳を見詰めた後に、

「私の家族と一緒にいる時、あなた・・・少し元気がないから」

 と言いました。僕は途端に自分が情けなくなって、ほたるさんに背を向けました。自分ではいつも通りでいるつもりでしたが、そんなもの、ほたるさんには通用しないのです。彼女は僕の事をよく見てくれています。僕はすっかり黙り込んでしまっていましたが、後ろからそっとほたるさんが抱き締めてくれました。

「私にもっと話して・・・あなたのこと、あなたの家族のこと」

 ほたるさんは、僕の家族ととても仲良くしてくれました。母とも気が合う様で、医師という仕事柄かあれから復職した母の体調をとても気に掛けてくれました。母もまた、ほたるさんのことを信頼してくれている様でした。大好きな祖父母にも親切にしてくれるほたるさんの後姿に、僕の目元がそっと涙で濡れたことは彼女には秘密なのです。
 
  その数か月後。ほたるさんからの妊娠の報告を聞いて、僕は思わず会社の屋上で一人ジャンプしました。嬉しさが体中に染み渡ってどうしようもなかったからです。しかし同時に、小さな不安も芽を出した様な気がします。
 それは日増しに僕の心の養分を吸い取って、少しずつ大きくなっていきました。

 それから時が流れたある休日の昼下がり。産休に入ったばかりのほたるさんと僕は、久しぶりに穏やかな時間を自宅のリビングで過ごしていました。季節は11月。秋も深まり冬が迫ろうとする中、僕らはゆったりとしたクラシック音楽に聞き耳を立ててソファに腰を下ろしていました。

「あ・・・今、蹴った」

 ほたるさんがそう零したので、僕はそっと目蓋を開けました。ほたるさんのお腹は臨月を迎え、とても大きくなっていました。
 僕はそのお腹にそっと手を当ててみました。すると、時折ぽこんと小さな衝撃が伝わってくるのが分かります。僕とほたるさんは顔を見合わせ、互いに笑みを浮かべました。しかし笑い止んだ後、ほたるさんが僕の手を静かに握って来ました。

「何か、考え事してる?」

 そんな彼女の言葉にどきりとした僕は、観念したかの様に深い息を吸ってゆっくりと吐き出しました。

「・・・少しだけ、怖いと思ってる自分がいる」

「・・・話して」

「僕は父親を知らない。僕は父親になれるだろうか。僕に父親ができるだろうか」

 すると、ほたるさんが優しい笑みを浮かべて言いました。

「・・・あなたはあなただよ」

 心に根を下ろしていた不安の雑草が、するすると抜かれていきます。僕の靴にはいつしか紐が通され、綺麗な蝶に結ばれていました。

「生まれがどうとか、親がどうとか、そんなに思い詰める必要はないんじゃない? 私はあなたが夫であること、そしてこの子の父親であることを、ちっとも不安に思ってない。私は知ってるもの。あなたはとても優しい人だってことを」

 そう言うほたるさんの暖かな瞳は、僕らの歩む道に降り注ぐ優しい木漏れ日の様でした。

「ありがとう」

 僕はそう言った後、大きくなったほたるさんのお腹にそっと耳を押し当て、微笑みながら静かに瞳を閉じました。

「もうすぐ、君に会えるね」


< 終わり >

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