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令和源氏物語 宇治の恋華 第百三十九話

 第百三十九話 浮舟(三)
 
薫君が宇治を去り、翌々日には約束通りに迎えの車が差し向けられました。
薫君の意向はすでに母君に伝えられ、波風立てることなく姫が宇治へ迎えられるのをほっと胸を撫で下ろした北の方なのです。
きっと薫君ならば姫を大切に扱って下さるに違いない。
「わたくしの可愛い姫、どうか幸せになっておくれ」
そうしてただただ祈るばかりなのです。
北の方は愛娘に宇治の山荘へ移る旨をしたためた手紙を送りました。
宮の姫は例の匂宮が自分を探していると聞かされてあの折のことを思い返すも、またのぼせてしまいそうです。
殿方をあれほど近くに寄せたことも無い純真な姫なれば、女人の心を溶かす宮の口当たりよい言葉もただ気味悪く思われるばかりで、意のままにならぬよう身を固くするしかできませんでした。二度とあのような恐ろしい目には遭いたくはありません。
「右近や、匂宮さまがわたくしを探しているということだわ。姉上の夫であるというのに、なんと恐ろしいことでしょう」
「匂宮さまはそれは魅力的な殿方ですが、感情に素直すぎるのが難点でございましょう。姉妹であるのも憚らず恋をしたら一直線という御方ですものねぇ」
そして冷めるのも人一倍早い、という言葉は呑み込む右近の君です。
気立てが優しい娘なので長く仕えてきた主人を悪く言うことができないのでしょう。
「魅力的な殿方」と右近の君に言われ、宮の姫はそれまで忌まわしく考えていた匂宮の姿をじっと思い出しました。
たしかに美しく、口調も優しい様子で、焚き染められた香もこれまでに嗅いだことのないような高雅さ。
なるほどあの御方が当代一といわれるのも頷かれるのです。
だからといってどうというのではなく、観賞用の花のようにしか匂宮を思われぬのは男女の機微をご存知の無い姫ゆえでしょうか。
今はただ女房たちが宇治へ赴くための支度に慌ただしく動き始めるのを、また自分はどこぞへ流されてゆくのだ、そしてそれはこの華々しい京からは遠く離れた山なのかと寂しくて、胡乱な表情を浮かべられるのでした。
 
陽が暮れた頃に弁の尼が宮の姫の元を訪れました。
「姫さま、ご無沙汰しております。俗世を捨てたわたくしではありますが何かお役に立てるかと恥を忍んで参りましたのよ」
「尼君さま、お元気そうでなによりです。どうぞよろしくお取り計らいくださいませ」
「夜の山道は危のうございますから明朝に宇治へ参りましょう」
「はい」
弁の尼がまじまじと眺める宮の姫はやはり大君その人であるように思われて、ようやく薫君の恋が実を結ぶかと感慨もひとしおです。
姫も訪れる者もなかったこの邸に亡き父に仕えていた人が来てくれたので、うちとけて親しげにあれやこれやと語らっていると宇治からの遣いと称した取次がありました。
もしや薫さまでは・・・。
弁の尼が門を開けさせると簡素ながら上質な車がすっと引き入れられました。
いつのまにやら降り出した雨が風に煽られて吹き込むのと同時にえもいわれぬ芳香が漂い、邸の人々は薫る大将のお越しを知ったのです。
「まぁ、どう致しましょう」
狼狽しつつも貴人の入来を喜ばずにはいられない若い女房ばかりですので、すぐに座をしつらえるという機転が利きません。
そうかといって年老いた乳母は先の匂宮の振る舞いを目の当りにしておりますので渋い顔をしているばかり。見かねた弁の尼が口を挟みました。
「薫さまは匂宮さまとは違いますので女人に無理を強いるようなことは致しませんわ。いずれ結婚するにしてもまずはお話をして相手を知ってから、というような紳士ですもの。いつまでもお待たせするのは失礼に当たりますでしょう」
そうして女房たちはようやく重い腰を上げたのでした。
薫は普段こうした微行をしないので、こんな雨に濡れる風情も珍しくのんびりと濡れ縁の淵に座す御姿は田舎びた人達には神々しく、袖の雫を無造作に払いのけると一段と香気が高まるのはやはりただ人とは思えません。
 
 苦しくも降り来る雨か三輪が崎
    佐野のわたりに家もあらなくに(万葉集・巻三)
(三輪が崎にて降る雨で辛く苦しい旅となった。佐野の渡りに家があるわけでもないのに)
 
 さしとむる葎(むぐら)やしげき東屋の
        あまり程ふる雨そそぎかな
(雨だれとなった私を差し止める葎でもあるのであろうか。いつまでも待たされるこの身であるよ)
 
ようやく南の廂に御座(まし)が設らえられると、まるで重力を感じさせぬような貴人特有の足取りで現われた御姿はまことに目が灌がれるようで宮の姫もぼうっと見惚れるばかりです。
「突然に訪れて申し訳ない。かつて御身が初瀬参りの中宿りにお越しになった宇治の山荘で垣間見てからどうにも忘れられなくて」
胸の鼓動が激しく打つのを収められない姫君が頬を赤らめたまま返事もできずにいるようなのを可愛く想う薫なのでした。

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