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令和源氏物語 宇治の恋華 第百四十話

 第百四十話 浮舟(四)
 
宮の姫の邸は同じ三条の辺りと言っても大路に近いところであるので、鶏が鳴く前から下賤の人々の息吹が聞こえるようです。
薫にはそれもまた珍しく、物売りなどが頭に籠を載せて徘徊するのを眺めておりましたが、これ以上人通りが多くなっては厄介と車を妻戸に呼びました。
「さぁ、姫。宇治へ参りましょう」
御簾の裡に滑り込んだ薫は姫を軽々と抱き上げました。
「あら、どうしましょう」
またもや狼狽する女房たちですが、薫は意にも介しません。
そのまま姫君を車へと運びました。
「九月は結婚には忌む月と申しますのに」
「明日からが節分ですのでその点はお気になさらずに。ここは薫君に従われますよう。きっと悪いようにはなさりませんでしょう」
弁の尼は乳母を宥めて姫の乳姉妹である侍従の君と共に車へ同乗しました。
宇治へは賀茂川に添って進んでゆきますが、車窓は次第に家屋がまばらとなり、山に分け入るばかりの伏見街道は法性時(ほうそうじ)辺りに差し掛かると夜はすっかり明けきりました。
そして差し込む朝陽に浮かび上がる薫君の清しい御姿を姫君と侍従の君は見ました。
「山は今燃えるような紅葉が鮮やかですよ。旅のつれづれに覗いてご覧なさい」
薫君に薦められて扇で顔を隠しながら覗き見るときらきらと輝く川面に、明るい朝陽に照らされた山は赤く染まり、常に見る紅葉とは違う様子は新鮮でした。
にっこりと穢れない微笑を浮かべる貴公子にどぎまぎと居住まいを正す麗しい婦人の姿も薫君には新鮮なものです。
分け入るほどにごとごとと響く音は激しくなり、時には小石に乗り上げて車が波打つようになります。
受領に従い下ることに慣れた姫とはいえ山道は心地よいものではありません。薫は宮の姫をそっと抱き上げると膝に乗せました。
「このほうが少しは和らぎましょう」
身近に寄るほどに芳しい香りと高貴さにあてられて、姫君はのぼせるように口数も少なくなります。そうかといってあの匂宮が側に寄った時のような不快感はなく、まるで天人に誘われて楽土へ赴いているようなのが不思議に思われるのです。
「そう肩に力を入れずに私に委ねてよいのですよ」
「はい」
夢見心地でこれほどまでに安心して殿方に身を預けられるのが初めての経験でもありますし、宮の姫はぼうっと現実ではないように感じているのです。
「姫、辛くはありませんか?」
「はい」
それまでは殿方というものを恐ろしく思っていたものの、これほどに頼もしく心が安らぐということに無垢な姫君はときめきを覚えるのでした。
それは乙女の蕾が開こうとしている刹那。
しかし初めてのこととて怖じている姫君なのです。
薫は身を固くする姫の心を解そうとこの人自身を知りたいと思いました。
「姫、けして無礼なことは致しません。どうか私を信じて何なりと思うままに語らいましょう」
その薫君の誠実そうな眼差しを受けて、姫君はこれまで心に負うていたものを脱ぎ捨ててもよいと許されたように感じるのでした。
「わたくしはこれまで身の置き場も無く漂ってまいりました」
姫君の意外な言葉に薫は胸を衝かれました。
それこそ自身も感じてきたものであったからです。
「真の父に子とも認められず漂ってきたこの身には、今はまたどこへ流れてゆくのかとそればかりが不安でならないのです。わたくしはこの世に生まれるべきではありませんでした」
そうして目を伏せる姫君はまるで己を映す鏡であるか。
自分こそはこの世に生まれるべきではなかったとその身を呪い生い立った薫には姫の内なる叫びが聞こえてくるように思われたのです。
「この世に生まれて悪い存在などあるはずもない」
薫は知らず姫君を抱きしめて涙を流しておりました。
それは自分自身を抱きしめて慰めているような、己が掛けてほしかった言葉を姫に与えているだけですが、許すことこそこの姫には必要であると感じ取ったのです。
否、それは薫自身が最も渇望した言葉であるものか。
姫はその言葉に癒されて、まるでそれまでの殻を脱ぎ捨てたように涙を流しておりました。
人は生まれる時に涙を流してこの世を見ると言われております。
再び生まれ出でるのであればやはり同じように涙を流すものなのでしょう。
宮の姫は薫が涙を流すのを見て、この貴人も人に言われぬ疵を抱えているのだと悟りました。
互いに抱き合って鼓動を感じ、言葉がなくとも心を通わせる。
これは男女の情を超えて人と人との交わり。
「あなたはまるで漂う小舟のようにご自分をおっしゃるのだね」
そうして悲しく笑む薫に姫は答えました。
「わたくしはそのように流れてきたのですもの」
「なるほど。ではその浮舟を私の元に繋ぎとめよう」
薫はそう言って姫の額に口づけをしました。

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