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風にたゆたうマインド

 月十六日、朝から風が強い。がたがたと音を立てる建具のやかましさに朝の五時前には目が覚めてしまった。けれども夜中に目を覚ましてトイレに立った記憶がないから、いつもよりかはよく眠れていたのかもしれない。ここ最近はかなり早い時間からきちんと寝る態勢を整えて眠るよう心掛けているが、中途覚醒なしで朝を迎えるのはなかなかめずらしい。
 早く起きたら起きたでやりたいことはいくらでもあるといえ、その後に仕事が控えているとなるとあまり根を詰める気にもなれない。職種や業務の違いはあれど、とにかく外回り、現場に出る者にとっては一瞬の判断ミス、ちょっとした確認漏れが自分もしくは誰かの死につながるのだから疲労をチャージした状態で出ていくわけにもいかないだろう。
 じゃあ何で朝からこんなの書いてるのかって、これはこれで書いてみないとなんにも始まらないこともそこそこ多いからだ。ネット上でのやりとりもあるといえ、ほとんどの行為行動は登場人物が自分一人であるからネタになるような出来事も少ない。滅多に遠出もしないし。それでも気付きや学びとかいう類のものは見つけようと思えば見つかるが、パッと見てパッと見つかるようなソレはすでに他の誰かが大仰に語ってくれていることだろう。やけに短くプチプチと小分けにされた、折れたポッキーでも並べたみたいな『読みやすい文章』を用いて。

 現したいものがあるから書くのではなく、書いてみるから顕現するものがあるのだ、という言説をたまに見かける。そういうものだろうか? いや、そういうものだろうか。書いてみて初めて顕れる、ということは、そのような思想や、あるいは考え方の癖みたいなものが、文字に表されるより以前から内在していたということだ。自分でさえ気づかないでいた事柄がふと顔を出す場合もあれば、あえて胸の奥にしまい込んでいた批判的な内容が、結局しまい込み切れずに飛びだしてきたりもする。たぶん。今日のこの記事はどちらかといえば後者に転びそうなので書きつけるのが躊躇われるが、まあ出てこようとしたものを無理に押し込めたら結局は一生の間の精神衛生によろしくない影響を与えそうなのでこのまま文章を編んでいくとしよう。
 文字を連ね言葉を綴り、意味ある文章を成す、それによって存在が揺らいでいた思いとか信念がよりハッキリとした形で明らかになるなら、自己の内面と向き合う方法が結跏趺坐での瞑想のみ、というのでもないわけだ。要は集中力の向かう先が自分であれば良いから、ヨガやトレーニングなどの全身を使う行為でも身体の変化に伴う内面の変化に気付ければ、今その瞬間の自分にフォーカスするという点において究極的にはマインドフルネス、またその過程における瞑想と究極的には同じではなかろうか。ミクロコスモス、ヒトの心の小宇宙も存外広いものだ。探求の方法もそれぞれあって然りで、どれか一つだけが正解と決めつけてしまうのもナンセンス、ただでさえ多様性が叫ばれる昨今だというのに。

 るい未来や希望を信じている人はきっと多いことと思う。強い気持ちを持って、時おりその意思を表明し、自分に言い聞かせるような信じ方をしている人も、中には。けれども少しだけ立ち止まって考えてみるに、自分を信じるためにわざわざ強い気持ちが必要になるのは、まだ自信が追いついていないことの裏返しとも言えないか。息をするのに『私は今日も空気があると信じています!!』と宣言する人はあまりいないだろう。本当に心から存在を信じ疑わないのであれば、そのこと自体がほとんど意識されない状態に達している、ような気がする。
 とりとめのないことばかり書いたとはいえ、無から記事ひとつ生まれた、あるいはその辺に漂っていたものの目に見えていなかったものに実体を持たせられたなら、まあそれなりに有意義ではあるか。部屋の隅を指さして『そこにはなにもありません』ではつまらない。何も無さそうに見えるところにだって、私の、そしてあなたのスペース宇宙がしっかり存在している。無いものよりも有るものに目を向けよう、なんて言うなら、ポジティブってやつの根本は、そういうことじゃないかな。希望? あぁその辺にたくさん漂ってるやつだろ。見えるか見えないかは自分次第さ。

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