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今月、食べる直前に撮影されたお弁当のサムネイル

2瓶漬けた紅生姜が八面六臂

お弁当は食の原風景の1つだ、とよく思う。
毎日夫がお弁当を食べる前に、同じアングルで写真を撮っているようで、ある程度たまると「いつもありがとう」という短いコメントと共にサムネイルが送られてくる。上の写真は今月のものだ。
つくってから5〜6時間後、通勤で持ち歩いた後の様子がわかる。あーこれよかったからまたつくろうかな、と自分でつくっておきながら忘れかけたおかずを思い出したりする。
お弁当も、普段のごはんも日常。私にとっては、お弁当だけが日々の食事や生活から切り離されているものではなく、あるものの中でえいやっと瞬発力でつくる。作っている方は、それゆえ結構忘れてしまうのだ。

お弁当と思い出と

誰しもが、大なり小なりのお弁当の思い出を持っている。
偉大なる文筆家たちもどこかでその思い出を綴ったり、または作品の中にシンボリックに登場させていて、それが人の心の惹きつけるのか『お弁当アンソロジー』(だいわ文庫)や随筆集『アンソロジーお弁当。』(パルコ)など、お弁当にまつわる話だけを集めたものがいくつも出版されている。

どの仕事でご一緒だったか、それがいつのことだったか定かではないけれど、その人が語ったお弁当の思い出はよく覚えている。
ある人は、お母さんが毎日なぜかメンマをお弁当のおかずに入れていたそうだ。
またある人は、毎年冬に必ずお母さんがおでんをお弁当にするので、高校生の頃はその汁漏れが毎度困った、と話してくれた。
ある人は、小学1年生の頃、当時一緒に住んでいた祖母と母と出かけた川沿いでのピクニックで食べた手作りおにぎりだった、と回想していた。

不思議なことに、お弁当の思い出話を聞くと、それまで掴みきれないその人となりが、なんとなく見える気がする。
ちょっと苦手かもしれない、と思っていた人に急に親しみを抱けるような、心が少し通うような、そんな気持ちになる。

遠い過去、でも目の前にいる人には確かにその時から今がつながっていて、私は決してその当時その人と出会うことはないのだが、うっすらとその当時のその人の輪郭が浮かぶ上がる。

きっと、思い出のお弁当をつくった彼らのお母さん(またはおばあちゃん)は、数十年後すっかり成人した彼らが今、そんなふうにその食の原風景を懐かしむように楽しそうに語っているかを知らないだろう。

自分の作ったお弁当のこと、覚えているだろうか。ご本人に聞いてみたい気がする。もしかしたら、私がそうであるように、あまりにそれは日常の中にありすぎて、覚えていないかもしれない。お弁当とはそういうものだ。




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